初のトレードは江川卓と小林繁
日本プロ野球界で最も古い歴史を持つ巨人と、それに次ぐ阪神。1リーグ時代からライバルとして覇を競い、2リーグ分立後も同じセ・リーグで東西の人気球団として戦ってきた。
従って両球団間の移籍は禁断のトレードとされ、過去をさかのぼっても極めて少ない。トレード以外を含めても、巨人と阪神両方のユニフォームを着た選手はごく少数だ。
そんな禁断のトレードが初めてあったのが1979年だった。作新学院高のエースとして甲子園を席捲した1973年は阪急の1位指名を拒否し、通算47勝を挙げた法政大時代はクラウンライターの1位指名を拒否した江川卓が、1年間のアメリカ野球留学を経て念願の巨人と契約を交わしたのが、ドラフト前日の1978年11月21日。野球協約の盲点をついた電撃契約だった。
しかし、この契約を無効とされた巨人が翌日のドラフトをボイコット。江川を1位指名したのが阪神だったのだ。
憧れの球団入りを熱望する若者と、エース候補を獲得したい球団同士の言い分は平行線を辿り、日本中を巻き込む大騒動に発展。解決の糸口さえ見えないまま年を越したが、最後は阪神がコミッショナーの「強い要望」を受け入れ、禁断の交換トレードが成立した。
キャンプイン前日の1979年1月31日。巨人のサブマリン・小林繁は宮崎行きの飛行機に乗る直前に球団から呼び出され、とんぼ返りで記者会見に出席した。俗に言う「空白の一日」による騒動は、急転決着を見たのだ。
プロで1試合も登板せずに形式上、阪神から巨人へのトレードとなった江川は、1年目から先発ローテーションに入って9勝(10敗)をマーク。2年目には16勝(12敗)、219奪三振で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得する。以降も、巨人のエースとして引退する1987年まで135勝(72敗)をマークした。
一方の小林は移籍初年度に22勝9敗、防御率2.89、200奪三振の快投を見せ、自身2度目の沢村賞を受賞した。プライドをにじませた巨人戦8連勝は今も語り草だ。その後も1983年の現役引退まで5年連続で2桁勝利を記録。阪神へ移籍後に挙げた77勝(56敗)は巨人時代の62勝(39敗)を上回っている。
すれ違った二人の野球人生は“移籍先”でさらに輝いたと言える。その背景はさておき、成績面だけを見れば両チームとも獲得した選手が結果を残した良トレードだった。