南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、阪神の6球団が清原指名
PL学園が夏の甲子園で優勝し、4番・清原和博とエース桑田真澄の「KKコンビ」が大フィーバーを巻き起こした1985年。秋のドラフトは巨人か阪神を希望する清原と早稲田大進学を表明していた桑田に注目が集まっていた。
当時は指名が重複した場合は抽選、外れた場合はウェーバーというルール。清原には南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、阪神の6球団が競合。本田技研・伊東昭光はヤクルト、阪急、ロッテの3球団が競合し、桑田は巨人が単独指名した。
外れ1位も含め、各球団1位指名選手のプロ入り後の成績を振り返る。
南海は西川佳明、日本ハムは広瀬哲朗を外れ1位、ヤクルトは3球団競合の伊東昭光
南海は清原を外し、法政大の左腕・西川佳明を指名。PL学園時代にセンバツで優勝し、法大時代は東京六大学リーグ通算30勝をマークした即戦力は、1年目から10勝を挙げた。しかし、その後は下降線を辿り、阪神に移籍後の1992年にユニフォームを脱いだ。通算25勝39敗1セーブの成績を残している。
ヤクルトは本田技研の右腕・伊東昭光を指名。ロサンゼルス五輪の金メダルを引っ提げてプロ入りし、1988年には18勝9敗17セーブでリリーフながら最多勝のタイトルを獲得した。1998年に引退するまで通算87勝76敗21セーブをマークしている。
日本ハムは清原を外して本田技研・広瀬哲朗を指名。駒澤大時代の1982年にもヤクルトから4位指名されたが拒否して社会人に進み、同僚の伊東昭光とともに社会人選手権で優勝した広瀬は、1993年と翌94年に2年連続でベストナインとゴールデングラブに輝いた。1998年に引退するまで通算966試合出場で592安打、12本塁打の成績を残している。
中日は清原を外して青山学院大のアンダースロー・斉藤学を指名。中日では1勝もできなかったが、ダイエー移籍後の1991年に3勝3セーブを挙げるなど、1997年に引退するまで通算135試合登板で7勝10敗3セーブの成績を残した。現在はソフトバンクのリハビリ担当コーチを務めている。
大洋は中山裕章、巨人は桑田真澄を一本釣り
阪急は伊東を外して日本大の右腕・石井宏を指名。北海道日大高時代にロッテの4位指名を拒否して進学し、東都リーグで19勝を挙げた。プロ2年目までに通算2勝を挙げたもののケガのため3年目に野手転向したが戦力外となり、阪神に投手として入団も1年でユニフォームを脱いだ。通算10試合登板で2勝3敗だった。
大洋は高知商の右腕・中山裕章を単独指名した。3年夏の甲子園準々決勝でPL学園と対戦し、清原に被弾して敗れた右腕はプロ3年目に10勝24セーブを挙げるなど、先発や抑えで活躍。中日移籍後の2001年に戦力外通告を受けると台湾でもプレーした。NPB通算51勝71敗62セーブの成績を残している。
近鉄は清原を外して東筑高の右腕・桧山泰浩を指名。一軍出場を果たせないまま1991年に退団した後は韓国球界でもプレーした。
巨人が指名したのは清原ではなく桑田真澄だった。2年目に15勝を挙げるなど2桁勝利を10度マークし、プロ通算173勝。最優秀防御率のタイトルも2度獲得した。2007年にはパイレーツでも19試合に登板。現在は巨人の一軍投手チーフコーチ補佐を務めている。