小野伸二と同僚だったロビン・ファン・ペルシが最多50得点
サッカーの2022年FIFAワールドカップは11月20日からカタールで行われる。世界から予選を勝ち抜いた32カ国が集う4年に1度の「夢の祭典」。本大会の組み合わせ抽選は4月1日に行われ、決勝は12月18日(日本時間24時)に予定されている。
「オレンジ軍団」の愛称で親しまれ、現代サッカーに大きな影響を与えたオランダ代表。伝統的な4-3-3システムの下、数多くのストライカーを輩出した。得点ランキングは以下の通りとなっている。
堂々の1位に輝いたのはロビン・ファン・ペルシで、国際Aマッチ通算50得点を挙げている。
利き足の左足から放たれるシュートは剛柔両面で精度が高く、またフィジカルやテクニックにも優れていた。フェイエノールト時代は左ウイング、左MFとしての起用がほとんどだったが、アーセナル移籍後にアーセン・ベンゲルによってセンターフォワードにコンバートされて得点力が開花した。
W杯には3度出場。2006年ドイツ大会では1次リーグ・コートジボワール戦で豪快なFKを決め、2010年南アフリカ大会では1次リーグ・日本戦で決勝アシストをマークするなど1得点2アシストで同国では最高位タイとなる準優勝に貢献した。ブラジル大会では6試合4得点を挙げて3位に輝いた。
フェイエノールト時代には小野伸二(現J1コンサドーレ札幌)と同僚だったことでも有名。若い頃はメンタル面でコントロールの難しい選手だったが「小野は天才。オランダ代表で小野より上手い選手はいなかった」と発言するなど彼にとっても小野伸二はアイドルで、聞く耳を傾けていたという。
内田篤人の元チームメート・フンテラールは42得点
2位には典型的な「BOXストライカー」のクラース・ヤン・フンテラールで42得点。元日本代表DF内田篤人氏のシャルケ時代のチームメートとしてもおなじみだが、強靱なフィジカル、シュート技術、得点嗅覚などから往年の名選手であるマルコ・ファン・バステンやルート・ファン・ニステルローイと比較されてきた。
2006年8月16日の親善試合アイルランド戦では2得点2アシストと全4得点を演出し、ルイ・ファン・ハール監督をして「ペナルティエリアの中では文句なしに世界最高の選手」と評価されたほどだった。
だがファン・ペルシがCFとして開花した後は徐々にスタメン機会減。W杯では2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会ともにすべて途中出場だった。計7試合2得点は立派な数字だが、もっと大舞台で輝いてもおかしくない選手だった。
「天才」クライファートは40得点で3位
3位はアヤックスやバルセロナで活躍したパトリック・クライファートの40得点がランクイン。1メートル88の巨体に見合わない柔らかな技術を持つ“天才”の名前を世界に轟かせたのは、アヤックス時代の1994~1995年、デビューシーズンだった。
当時指揮を執っていたルイス・ファン・ハール監督に見出され、18歳だった1994年8月21日・オランダスーパー杯フェイエノールト戦でプロデビュー。いきなり初得点を決めると、その後も得点を量産した。そしてダービッツやセードルフら同じアカデミー出身の若手たちとともに欧州CLで快進撃を見せて優勝を手にした。
オランダ代表には1994年11月16日の親善試合チェコ戦でデビュー。W杯は1998年フランス大会に出場したが1次リーグ初戦ベルギー戦で相手選手に肘打ちをして退場となり、3試合の出場停止処分を受けた。準々決勝アルゼンチン戦、準決勝ブラジル戦で得点を奪ったが、好不調の波がもっと少なければ…と思ってしまう選手の1人だ。
ベルカンプとロッベンが5位で並ぶ
4位には唯一の現役代表であるメンフィス・デパイの38得点が入った。ファン・ペルシと同じく若い時はサイドアタッカーとしての起用が主だったが、18年からはセンターフォワードでのプレーも多くなってきた。
20歳4カ月で挙げた2014年ブラジル大会1次リーグ・オーストラリア戦のW杯初得点は、同国の最年少ゴールとして記録。クラブレベルではマンチェスターUやバルセロナで期待されたほどの活躍はできていないが、2大会ぶりの出場となるカタール大会では現代表エースストライカーとして上位進出に導くことが望まれる。
5位は37得点で、90年代のオランダを代表するFW“アイスマン”デニス・ベルカンプ。純粋なストライカーではなくセカンドストライカータイプで、冷静な判断力と技術、そして正確無比な決定力を誇る。
彼の代名詞とも言えるのは1998年フランス大会アルゼンチン戦で見せたゴールだろう。背後からの浮き球をピタリと止め、切り返しでDFを抜き去り、右足アウトサイドシュートでネットを揺らすまでの一連の流れは芸術的。
そんなベルカンプを最大限に悩ませたのは飛行機移動だった。大の飛行機恐怖症として有名で、遠隔地への遠征はどんなに遠くても陸路でしか参加できなかった。
同じく5位にはアリエン・ロッベン。純粋なウインガーで、爆発的なスピードで相手DFを抜き去り、右サイドからカットインして放つ左足シュートは強烈だった。
W杯はドイツ大会から3大会連続出場し、計15試合6得点6アシスト。ただ筋肉系の負傷が多く、シーズンを通して活躍できないこともあった。
ファン・ニステルローイは35得点
7位にはヨハン・クライフも憧れたオランダサッカー史上「最初のスター」と呼ばれるファース・ヴィルケスの35得点。1946年3月10日の親善試合ルクセンブルク戦で4得点デビュー。技術に富んだ果敢なドリブル突破が持ち味で、1949年にはオランダ初のプロ選手としてインテル・ミラノへの移籍を果たした。
国外リーグ所属選手を招集しなかったため、オランダ代表としてのキャリアは1949年から54年まで“空白期間”となっているが、もし代表招集しされていたら、もっと数字が伸びていた可能性が高い。
同じく7位にはルート・ファン・ニステルローイもランクイン。オランダリーグ、プレミアリーグ、スペインリーグの全てで得点王に輝き、欧州CLでも3度の得点王に輝いた点取り屋だ。
ただW杯は2006年のドイツ大会のみで、その大会でも当時のファン・バステン監督との折り合いが悪く、決勝トーナメント1回戦ポルトガル戦は出場機会がなく敗戦。大会後にファン・バステン批判を展開、一時は代表招集を拒否する姿勢を示した。また生年月日が同じクライファートとは“犬猿の仲”であることも知られている。