FA制度導入後、最も注目度が高かった1996年
毎年のようにプロ野球のストーブリーグの話題になるフリーエージェント。選手にとって間違いなく分岐点であり、その選択によって自身の野球人生も違ってくる。決断が正解だったのかどうか知る由もないが、もし違う選択をしていたらと考えることは誰にでもあるだろう。
1993年にFA制度が導入されてから最も注目度が高かったのは1996年ではないだろうか。甲子園のスターから西武黄金時代の4番を張り続けた清原和博がFA宣言した年だ。
ほかにも西武・笘篠誠治、近鉄・鈴木貴久、ロッテ・田村藤夫、巨人・宮本和知、横浜・駒田徳広、畠山準、阪神・和田豊がFA権を行使したが、田村以外は残留。清原には球界を二分する老舗球団、巨人と阪神が獲得に乗り出したこともあり、世間の注目を一身に集めた。
巨人の9年間で規定打席到達は3度だけ
阪神は吉田義男監督の「縦縞を横縞に変えてでも」という口説き文句が有名だが、条件面でも巨人を上回っていたことを清原自身が明かしている。阪神と交渉後の会見で「汗が止まらなくなった」と清原は振り返り、阪神側の熱意を十二分に感じたことを明かしていた。
しかし、清原は巨人を選んだ。最後は母親の言葉が背中を押したという。寒さが厳しさを増す11月24日は、幼い頃から憧れていた巨人のユニフォームに袖を通した29歳にとって、間違いなく野球人生のターニングポイントだった。
清原の巨人9年間の通算成績は846試合出場で720安打、185本塁打、576打点、打率.266。4番・松井秀喜に続く5番を打った2001年には121打点をマークしたが、結局タイトルには一度も届かなかった(2001年はヤクルト・ペタジーニが127打点)。
規定打席に到達したのは1997年、1998年、2001年の3度だけ。不動の4番だった西武時代とは違い、元々の巨大戦力に加え、FAで江藤智が加入したり、ペタジーニら助っ人外国人が補強されたりする巨人では、常に激しい競争にさらされた。
「暗黒時代」の阪神なら不動の4番?
もし、あの時、阪神を選んでいたら…。1990年代後半の阪神は「暗黒時代」と呼ばれ、1995年からの7年間で6度も最下位に沈んでいた。
4番は桧山進次郎や大豊泰昭、新庄剛志らが務めたが、決して打線は強力ではなかった。ライトからレフトに浜風が吹く甲子園は、右打ちのスラッガーには追い風となる。清原がどっしりと4番に座っていたら、チームとしても、清原個人としても違う結果になっていたかも知れない。
清原は2005年に巨人を戦力外となり、仰木彬監督に「お前の花道は俺が作ってやる」と口説かれてオリックス入りする。オリックスの在籍期間はわずか3年、本塁打は11本しか打てなかったが、清原にとっては幸せな時間だったかも知れない。
引退後、覚せい剤取締法違反で逮捕され、現在は更生の道を歩んでいる。