イチローはポスティングシステムでマリナーズ移籍
20世紀最後の年、2000年は松井秀喜が42本塁打、108打点で二冠に輝き、高橋由伸、清原和博、江藤智ら重量打線を擁してチーム本塁打203本をマークした長嶋巨人がセ・リーグを制覇。パ・リーグ優勝の王ダイエーと日本シリーズで激突して話題を呼んだ「ON決戦」を4勝2敗で制した。
オフの最大の話題はオリックスからポスティングシステムでメジャーリーグ挑戦を表明したイチローだった。7年連続首位打者に輝いた日本が誇るヒットメーカーは、11月に独占交渉権を獲得したマリナーズ入りが決まった。
一方、FA宣言したのはヤクルト・川崎憲次郎、阪神・新庄剛志、矢野輝弘、山田勝彦、日本ハム・奈良原浩、近鉄・水口栄二の6人。そのうち矢野、山田、奈良原、水口は残留し、新天地に移籍したのは川崎と新庄の2人だった。
川崎憲次郎は中日4年間で3試合登板のみ
大分・津久見高時代に甲子園で春夏連続ベスト8入りした川崎は、1988年ドラフト1位でヤクルトに入団。高卒1年目から4勝(4敗)を挙げ、1998年には17勝10敗で最多勝に輝くなど、セ・リーグを代表する右腕に成長していた。
2000年オフにメジャーも視野に入れてFA宣言すると、通算88勝のうち巨人戦で29勝をマークしていた「巨人キラー」に、自身も現役時代に巨人戦35勝を挙げた中日・星野仙一監督がラブコール。3年総額6億円+4年目は出来高制という破格の条件で、川崎は中日入りを決断した。
星野自身や杉下茂、権藤博、小松辰雄らが背負ったエースナンバー「20」を受け継ぐなど大きな期待をかけられた川崎は、翌2001年に右肩痛を発症。そこからまさか、まさかの長期離脱となった。2003年には移籍後全く一軍登板のない右腕がオールスターのファン投票で1位になり、辞退する騒動もあった。
星野から山田久志を経て落合博満が監督に就任した2004年。指揮官の指令で開幕戦のマウンドに立ったものの、2回途中降板だった。その後2試合に登板し、計3試合で0勝1敗、防御率34.71の成績を残し、同年限りで引退した。