日本ハム黄金期を支えたトミー・クルーズ
日本プロ野球界では世界各国の選手がプレーしてきた。その中でプエルトリコ出身のベストプレーヤーは誰だろうか。まずは主な野手から見ていこう。
アルト・ロペスは1968年にロッテの前身、東京オリオンズに入団した左打ちの外野手。1年目から4年連続で20本塁打以上を放った。1972年にヤクルトに移籍したが、2年間で計25発と本塁打が減り、1973年限りで退団。NPB通算116本塁打、401打点の成績を残している。
MLBのブレーブスとメッツで12年間プレーし、通算1617安打の実績を引っ提げて1978年に大洋に入団したのがフェリックス・ミヤーンだ。来日2年目の1979年には打率.346で首位打者に輝くなど、NPB計3年で通算打率.306をマーク。本塁打は12本と少なかったが、メジャー仕込みの巧打を見せた。
トミー・クルーズはトニー・ソレイタとの助っ人コンビで1981年のリーグ優勝に貢献するなど、日本ハム黄金期を支えた左打者だ。1980年に入団し、1年目から打率.309、26本塁打、84打点をマーク。以降も安定した打撃を見せ、1984年には打率.348、29本塁打、96打点の好成績を残すなど、NPB通算打率.310、120本塁打、466打点を挙げた。
バンボ・リベラは1985年に近鉄入団し、いきなり31本塁打をマーク。しかし、2年目は振るわず、わずか6本塁打でシーズン途中に退団した。
「マリオ」と愛されたカルロス・ポンセ
カルロス・ポンセは1986年に大洋入りし、打率.322、27本塁打、105打点をマーク。翌1987年も打率.323、35本塁打、98打点で打点王、3年目の1988年は33本塁打、102打点で二冠王に輝くなど、NPB計5年で通算119本塁打、389打点を挙げた。口ひげをたくわえた風貌から、当時流行した「マリオ」と呼ばれた人気選手だった。
トニー・バナザードは1988年に南海に入団し、28試合連続安打を記録するなど、打率.315、20本塁打の好成績をマーク。ダイエーとなった1989年には34本塁打を放つなど、三拍子そろったスイッチヒッターだった。NPB通算打率.289、67本塁打、193打点の成績を残している。
ハーマン・リベラは1989年の開幕直後に近鉄入団。25本塁打、79打点を挙げてリーグ優勝に貢献したが、同年オフにわずか1シーズンで退団した。
1997年に中日に入団したレオ・ゴメスは、1年目から打率.315、31本塁打をマーク。1999年には36本塁打、109打点を挙げて優勝に貢献した。NPB通算6シーズンで153本塁打、449打点の成績を残している。
メルビン・ニエベスは1999年にダイエーに入団し、計2年で32本塁打、81打点の成績を残した。
2年連続本塁打王のネフタリ・ソト
イバン・クルーズは2001年に阪神入りしたが、14本塁打、34打点に終わって同年オフに退団した。翌2002年はカージナルス3Aでプレーし、2003年に中日入りして日本球界に復帰。NPB計2シーズンで25本塁打、68打点の成績を残している。
2001年にダイエーに入団したペドロ・バルデスは、1年目から打率.310、21本塁打の好成績。2003年には26本塁打、104打点をマークし、井口資仁、松中信彦、城島健司とともに「100打点カルテット」と呼ばれた。ダイエーを退団後は韓国でもプレー。NPB通算86本塁打、335打点の成績を残している。
ヒラム・ボカチカは2008年に西武入団。2軍落ちも経験したが、終わってみれば78試合出場で20本塁打を放った。翌2009年は13本塁打にとどまり、オフに退団した。
2018年から2年連続本塁打王のタイトルを獲得したのがネフタリ・ソト。2017年秋にテストを受けてDeNA入りし、1年目から41本塁打、95打点をマークすると、2年目の2019年は43本塁打、108打点で二冠王に輝いた。
スティーブン・モヤは2018年に中日入団し、2年目のシーズン途中にオリックスに移籍。NPB計2年で14本塁打、54打点の成績を残している。