前田健太と前田智徳
2020年のプロ野球オールスターの中止が決まった。文字通りスター選手が一堂に会する機会がなくなるのは寂しい限りだ。そこで過去のオールスターを振り返ってみたい。
順位4.86位、62.3勝75.3敗3.8分、勝率45.2%。これが何の数字かお分かりだろうか。
広島カープの1998年から2012年にかけての平均年間成績だ。今でこそセ・リーグ屈指の強豪チームとなっているが、つい最近まで長期の低迷に陥っていた。
その原因とされるのはFA制度と逆指名制度。1993年に導入されたFA制度で主力選手が次々と流出し、ドラフト会議での逆指名制度(のちの希望入団枠制度)の影響で広島は有力選手の獲得もままならず徐々に弱体化。結果それまで安定してAクラスにいた広島は、1998年に5位に転落するとそこから15年連続でBクラスに低迷し暗黒時代に突入した。
その暗黒時代にあってチームを支え続けた選手たちがいる。生涯広島を貫き、今の黄金時代の礎を築いた野村謙二郎。2001年からMLBに移籍するまでエースとしてチームをけん引し、2016年には移籍前の宣言通り広島に復帰した黒田博樹。広島市民球場最後のホームランを放った栗原健太。史上二人目の100勝100セーブを挙げた佐々岡真司現監督や緒方孝市前監督らが主力として戦った。
この時期チームを信じて応援し続けたファンには印象深い選手たちばかりだろう。
そして、この暗黒時代を支えた選手として忘れることのできない二人の「前田」がいる。一人は2014年にMLBに移籍し、現在ミネソタ・ツインズに所属するマエケンこと前田健太。もう一人は度重なるけがに苦しみながらも、落合博満氏、イチローをして打撃の天才と言わしめた男、前田智徳氏だ。この二人、暗黒期の広島で主力として活躍したことと名字以外にも共通点がある。
二人のカープ戦士を結び付けるもの、それはオールスターだ。
松坂大輔、江夏豊以来のMVP
広島には2010年代以降こそ4人のMVPがいるが、それ以前は第1回オールスターからの152試合で9人しかいない。暗黒期の15年ではこの二人の前田だけだ。ちなみにMVP最多は巨人の24人で、ソフトバンク(南海・ダイエー時代含む)が20人で続く。
前田健太は2012年に先発投手部門で最多票を獲得。2年ぶり2度目の出場を果たし、第2戦に先発した。
最大の見せ場となったのは全パの4番ペーニャとの対戦。初球、2球目と特有の縦に落ちるカーブで惑わせ、3球目は150キロ近い直球で三振にしとめた。その後も3回1死までパーフェクトの好投。田中賢介に安打を許すも残り2人をピシャリ。
3回無失点で勝利投手となり、投手としては04年の松坂大輔以来、球団投手では1980年の江夏豊以来32年ぶり2人目のMVPという快挙を達成した。
シーズンを通しては1955年の長谷川良平が達成した防御率1.69を上回る1.53を記録。球団史上最高記録とともに最優秀防御率のタイトルを獲得した。
オールスターMVP獲得年に図らずも自己最高の記録を達成した形だが、これはもう一人の前田にも通じる。
1996年の金本知憲氏以来9年ぶりMVP
落合博満氏、イチローにも認められ打撃の天才と称されながら、意外なことに前田智徳氏は主要な打撃のタイトルを獲得したことがない。それは95年シーズン序盤の右アキレス腱断裂の大けがが原因だろう。
それでも復帰した96年から99年まで4年連続打率3割超え、ファンに完全復活を印象付けた。ところが実際はこの大けがが、氏から理想のバッティングを奪い去ってしまっていた。「前田智徳は死にました」と報道陣にこぼし一時は引退も考えたと言われる。
さらには度重なる故障の原因にもなったとされ、2000年には左アキレス腱の状態が悪化してしまい再び手術。翌年も出場27試合にとどまった。
一部では現役続行を不安視する声もあったが、前田智徳氏はそこで終わらなかった。2002年に再び打率3割を超えると、翌2003年にはカムバック賞を受賞。そして2005年、外野手部門で3位となり大けがをした1998年以来7年ぶり5度目のオールスターに選出された。
第一戦は指名打者として出場、三打席とも凡退したものの、第2戦では全方向に安打を放ち4打数3安打2打点。猛打賞の活躍で1996年の金本知憲氏以来9年ぶりに赤ヘル軍団からMVPが生まれた。
その後、シーズン終了時には復帰後最高打率.319、最多安打172を記録し、自身初となるシーズンフル出場を達成。2007年にはNPB史上36人目となる2000安打に到達し、球史に名を刻んだ。
2013年、コーチ兼選手として一軍に名を連ねたが、シーズン中の右手首のケガがもとで引退を決断。もう一人の前田こと前田健太ら新世代の活躍もあり広島はシーズン3位。チームの15年ぶりのAクラス入りを見届け、打撃の天才と呼ばれた男はついにそのバットを置いた。