50周年記念興行で病床の猪木に「1、2、3、ダー」
気配りの人らしい、クライマックスだった。3月1日に日本武道館で開催された新日本プロレス50周年記念興行「旗揚げ記念日大会」。全試合終了後、マイクを持った藤波辰爾は、当然のように、その名前を口にした。
「猪木さんにエールを送るため、例のヤツを元気よくやりましょう」
半世紀前に団体を立ち上げた創始者は、相次ぐ病魔のために、記念すべき日をベッドの上で迎えている。会場に姿はなくても、オールドファンにとって、新日本プロレス=アントニオ猪木の図式は今も昔も変わらない。「1、2、3、ダー」。プロレスファンだけでなく、一般にも認知されたパフォーマンスとともに、区切りの興行は幕を下ろした。
「感無量。スタートのことを考えたら、50周年をこういう形で、まさか自分がリングに立てるとは夢にも思わなかった」
リング上で「師」の代役として大会を締めた藤波は、ようやく個人に戻って、感慨に浸った。メインイベントで現在の新日本マットを背負うオカダ・カズチカ、棚橋弘至と組んで、ザック・セイバーJr、鈴木みのる、藤原喜明と6人タッグマッチで激突。いくらシェイプアップしても、68歳のドラゴンに全盛期の動きを求めるのは酷かもしれない。
ただ、プロレスは単純に強さ、勝敗を競うスポーツや他の格闘技とは、ジャンルとして一線を画する。数々の名勝負を彩ったドラゴンスリーパーなどの必殺技に3182人の観客を集めた武道館は狂喜。現在進行形のレスラーに埋没することなく、藤波は自分をアピールした。
日本人選手わずか6人で船出
常に業界をリードしてきた新日本プロレスも、産声を上げた時は明日も見えない弱小団体だった。旗揚げ戦は1972年3月6日、東京・大田区体育館。猪木を含め、日本人所属選手は山本小鉄、木戸修ら6人で、タッグマッチ1試合を含む、わずか6試合の寂しい船出となった。
まだ18歳の藤波は、第1試合で無名の外国人レスラーにフォール負け。メインイベントに登場した猪木は、師匠の「神様」カール・ゴッチとシングルマッチで激突。ストロングスタイルの神髄ともいえる攻防を繰り広げ、最後はゴッチが猪木から3カウントを奪った。
団体の旗揚げ戦といえば、顔ともいうべきエースが勝利を飾り、強いメッセージを発信するのが本来の姿。あえて負ける姿をさらけ出したのは、猪木の反骨心が表れていて、新日本の「その後」を振り返ると興味深い。
「長州、一騎打ちで来い!」
それから20年後。すでにメジャー団体として君臨していた新日本プロレスは、横浜アリーナで20周年記念興行を打った。記者の仕事に就く1年前の筆者も、現地で一ファンとして観戦。歴史を体感しようとしていた。
今でも強烈な印象を残す試合が2つある。坂口征二&ストロング小林組VSタイガー・ジェット・シン&上田馬之助組は、開始から大荒れの様相。ほとんどリング上での攻防がなく、ありとあらゆる凶器が飛び交い、消化不良の反則決着となった。まさに昭和プロレスの権化のような戦いといってもいい。
メインイベントのアントニオ猪木&木戸修組VS長州力&木村健吾組は、マイクを握った猪木の思わぬ一言から試合が始まった。
「長州、一騎打ちで来い!」。まさかの指名に、沸き上がる客席。試合は当初の予定通り、タッグマッチで行われたものの、当時49歳のカリスマの一言が会場をヒートアップさせたのは間違いない。
2022年の新日本マットに、「いかがわしさ」や「予定不調和」のような要素は、どこにもない。よりスポーツライクな戦いが今の観客に受け入れられ、繁栄は続けている。プロレスは時代を映す鏡。誰よりも殺気を放つ猪木の不在で、その言葉を不意に思い出した。
【関連記事】
・新日プロレス生みの親 アントニオ猪木選手の功績を解説
・知っていれば楽しさ倍増!日本のプロレスの歴史を簡単チェック
・レスリングのルール解説、グレコローマンとフリーの違いは?