名球会入りが7人誕生した1968年ドラフト会議を振り返る|【SPAIA】スパイア

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名球会入りが7人誕生した1968年ドラフト会議を振り返る


空前絶後の大豊作

1965年に第1回が行われたドラフト会議。第4回を迎えた1968年は数多くの名選手が誕生している。200勝、2000本安打という名球会への入会資格をクリアしている選手は7名。(その年のドラフトで指名されたものの入団しなかった選手を含めると8名)
選手引退後にプロ野球の一軍監督を経験した選手も7名誕生し、球史に残ったという、振り返ると1965年のドラフト会議は大豊作の年であった。また、高卒、大卒、社会人からと各世代から名球会入り・監督経験者が生まれている。
金田正一選手(元巨人)の実弟である金田留広選手が東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)指名されたことも話題になった。
1968年のドラフト会議は、今から振り返ると野球史に燦然と輝く記念すべき年であり、実に素晴らしい収穫があった年であった。

法大三羽烏が注目を集める

この年のドラフト会議の目玉は山本浩二選手、田淵幸一選手、富田勝選手の法政大学所属の3選手だった。この3名は「法大三羽烏」と呼ばれており、即戦力候補としての期待がかかっており最も注目を浴びていた。
当時のドラフトは一斉入札ではなく、予備抽選で指名巡を決める方式をとっていた。予備抽選で決まった指名巡は東映、広島、阪神、南海、サンケイ、東京、近鉄、巨人、大洋、中日、阪急、西鉄。
東映は、東都大学野球連盟新記録となる20本塁打を放っていた亜細亜大学の大橋穣選手を指名。2番目の指名巡となっていた広島東洋カープが山本選手を指名。立教大学時代に長嶋茂雄選手が記録した8本塁打の記録を大幅に更新し、東京六大学記録の22本塁打を放っていた田淵選手を指名したのは阪神だった。
続く南海ホークスが富田選手を指名。「法大三羽烏」は4球団目までに全員が指名されたのだった。
プロ入り後は山本選手が「ミスター赤ヘル」として名球会入り、現役引退後も広島の監督、第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも日本代表監督を務めるなど最も功績を残したと言えるだろう。田淵選手は「ミスタータイガース」として活躍し、王貞治選手の本塁打王を阻止するなどスラッガーとして名を馳せた。現役引退後は福岡ダイエーホークスで監督も務めている。
その2人には見劣りしてしまうものの、富田選手も南海、巨人、日本ハム、中日と4球団でプレーし1303試合に出場。1087安打、107本塁打を記録するなど一定の成果を残している。

史上最多名球会入りが7名誕生!

この年のドラフト指名選手から、史上最多となる7人の名球会入り選手(2016年シーズン終了時点)が誕生している。「ミスター赤ヘル」こと山本選手、「サブマリン」山田久志選手(阪急)、「ミスターロッテ」の有藤道世選手(東京)、東尾修選手(西鉄)、加藤秀司選手(阪急)、福本豊選手(阪急)、大島康徳選手(中日)だ。また、当時入団拒否をしたが「小さな大打者」こと門田博光選手(南海)も阪急から指名されていた。
山本選手、山田選手、有藤選手、東尾選手はそれぞれ1位で指名されたが加藤選手は2位、大島選手は3位、福本選手は7位から名球会入りを果たしている。
特に阪急はこのドラフトで山田選手、加藤選手、福本選手と3人の、後の名球会入り選手を指名。入団拒否されたものの門田選手も指名しており、阪急の「スカウト力」の高さが伺い知れる。

【名球会入りを果たした選手】
広島1位:山本浩二選手(法政大)
阪急1位:山田久志選手(富士製鐵釜石)
東京1位:有藤道世選手(近畿大)
西鉄1位:東尾修選手(箕島高)

阪急2位:加藤秀司選手(松下電器)
中日3位:大島康徳選手(中津工業高)
阪急7位:福本豊選手(松下電器)

阪急12位:門田博光選手(クラレ岡山)※入団拒否

※東京は現千葉ロッテマリーンズ
※西鉄は現西武ライオンズ
※阪急は現オリックス・バファローズ

星野仙一ら名球会入り以外にも大物を輩出

名球会入りはしていないものの、好成績を残した選手も多い。
法大三羽烏と東京六大学で死闘を繰り広げた明治大学のエース・星野仙一選手もこの年のドラフトだ。ドラフト前に巨人が「田淵君を1位指名できなかったら星野君を指名する」と本人に話していたものの、巨人は星野選手ではなく、島野修選手を指名している。
このできごとがあり、星野選手は中日に入団後、巨人への闘争心をむき出しにし「巨人キラー」となった。
大洋ホエールズが1位で指名した野村収選手(駒澤大学)は、4回の移籍を行い通算121勝をマーク。史上初の12球団から勝利を挙げた選手となった。2017年現在は交流戦もあり、1度の移籍で達成可能である。しかし、交流戦のなかった時代はセ・パ各2球団に所属が必要となっており達成は困難だった。
南海に3位で指名された松井優典選手は1979年に引退するまで140試合の出場にとどまるが、引退後に名を馳せた1人だ。ヤクルトスワローズにおいて野村克也監督の下で二軍監督、ヘッドコーチなどを務め1990年代の黄金時代を支えている。
野村監督が阪神の監督となった際もヘッドコーチとなる。また、東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍監督も務めるなど、複数球団で指導力を発揮した。

下位指名では異色の人物も

下位指名からもプロ入り後に活躍を果たした選手もいる。中日がドラフト9位で指名した島谷金二選手(四国電力)がその一人だ。島谷選手は過去にサンケイスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)、東映、東京から3度の指名を受けていたが入団に至らなかった。しかし、通算4度目の指名となったこの年は入団に合意。1年目でレギュラーを獲得し125試合に出場を果たしている。
中日、阪急で14年間の現役生活を行い1682試合に出場し1514安打を放つ活躍。ベストナイン2回、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を4度受賞するなど攻守にわたり結果を残している。4度のドラフト拒否をしたものの、それでも指名された実力をプロの世界でも見せつけた。
また、東京は9位で飯島秀雄選手(茨城県庁)を指名。飯島選手は100メートル競走の日本記録保持者でもある陸上競技界の第一人者でもあった。飯島選手は代走専門として1969年から1971年までの3年間プレーし、通算23盗塁を記録している。また、一軍で打席に立つことはなかった。
ドラフト会議で指名され球団も獲得した時点では、選手の未来はもちろん何もわかっていない。しかし、数十年後に振り返ると、その年に巡り合わせた選手たちがいかに大物であったかを知り、その運命に驚くこともある。
将来を担う選手を見定めるドラフト会議。今後のドラフト会議でもその結果が数十年後、この1968年第一回ドラフト会議のように、あっと驚くような豊作となっているのかもしれない。そんな夢想をしながら見つめていきたい。

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