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江川選手、小池選手、福留選手…ドラフトにおける入団拒否を振り返る

2017 8/3 12:07cut
野球ボール
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2016年ドラフトでは山口選手が入団拒否

2016年のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから6位指名を受けた山口裕次郎選手。ドラフト前から上位指名でなければ、社会人へ進むことを表明したこともあり入団を拒否。社会人野球の強豪でもあるJR東日本へと入部した。山口選手は高卒社会人となり2019年のドラフトが解禁となる。
また、2015年度は巨人が育成3位で指名した松澤祐介選手が、指名後のケガ発覚により入団拒否となった。松澤選手は所属していた四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズに残ることになる。2016年シーズンで結果を残した松澤選手は、2016年のドラフトで再び巨人から指名(育成8位)され入団に至っている。
このように毎年、少数ではあるがプロからのドラフト指名を拒否し社会人野球に進む、あるいは浪人する選手は存在する。
今回は、その入団拒否を行った選手を取り上げていく。

8球団競合からの入団拒否

1989年ドラフト会議で史上最多となる8球団競合となった野茂英雄選手。抽選の末に交渉権を獲得したのは近鉄バファローズだった。1年目から18勝(8敗)、287奪三振、防御率2.91の記録をマークし最多勝、最多奪三振、最優秀防御率、最高勝率のタイトルを獲得。新人王、沢村賞、MVPを受賞し8球団競合の実力を見せた。
その野茂旋風が巻き起こったシーズンオフに行われた1990年のドラフト会議。この年の目玉は亜細亜大学の小池秀郎選手だった。小池選手には野茂選手と同じく8球団が入札。抽選の結果、ロッテオリオンズが交渉権を獲得。小池選手は西武ライオンズ、ヤクルトスワローズ、読売ジャイアンツの3球団を希望しており、それ以外なら入団拒否を表明していた。その言葉通りロッテには入団せず、社会人野球の松下電器へと進む。
社会人時代は故障もあり思うような成績を残すことはできなかったが、2年後の1992年に近鉄から1位指名を受け入団を果たしている。プロ入り後は1997年に15勝(6敗)の成績で最多勝を獲得し、一定の成績を残している。

福留選手は高校生以上最多の7球団競合!

1995年のドラフト会議において、高校生では史上最多となる7球団競合となったPL学園高の福留孝介選手。従来までは高校の先輩にも当たる清原和博選手(元オリックス)の6球団競合が最高記録だった。この記録を10年越しで塗り替えたが、当たりくじを引いたのは希望球団ではなかった近鉄だった。
就任した直後だった佐々木恭介監督が「よっしゃー」と叫ぶほどの喜びをみせたが、福留選手は社会人野球の日本生命へと進むことになる。ドラフト前から福留選手は中日、巨人を希望しており、その2球団以外なら社会人入りを表明していた言葉通りだった。
高卒社会人となった福留選手は、3年後の1998年に中日を逆指名し3年越しで夢を叶える。中日では福留選手の在籍期間中に佐々木元近鉄監督が打撃コーチとして入閣。近鉄ではなく中日で同じユニフォームを着ることになった。その後、FA制度を用いてメジャーリーグへ移籍、日本に再び戻ってきてからも阪神タイガースの主将になるなど活躍し、2017年現在も現役でプレーしている。
指名数が最多記録となっている小池選手(大学)、福留選手(高校)と多数の球団が狙う超大物選手は希望も強く、指名拒否に繋がりやすかったのかもしれない。

江川選手と巨人による「空白の一日」

ドラフトにおける入団拒否で最も話題となったのは江川卓選手(元巨人)だろう。「怪物」と称され作新学院高で豪腕ぶりを発揮していた江川選手。高校3年時の1973年に阪急ブレーブスから1位指名を受けている。この際は、進学希望があったことから入団拒否し法政大学へと進学をする。
法大時代には東京六大学で47勝を挙げる活躍を見せ、1977年に2度目のドラフト会議へと臨む。江川選手はクラウンライターライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)から1位指名を受けたものの入団を拒否。社会人野球には進まず、アメリカへ留学をすることになった。これは、大卒選手が社会人野球へと進むと、2年間ドラフトで指名することができなくなるためである。
江川選手は、翌1978年のドラフト会議が行われる2日前の11月20日に緊急帰国し翌21日に巨人と契約を果たす。これは1978年当時の規約ではドラフト交渉権があるのは、翌年のドラフト前々日までとなっていたからだ。前々日までは交渉できないが、前日なら交渉が可能という解釈をした巨人が電撃契約を果たしたのだ。
しかし、これはセントラルリーグ事務局が認めず契約は無効とされた。これにより翌日のドラフト会議を巨人はボイコット。江川選手は阪神、ロッテ、南海、近鉄の4球団が指名し抽選の結果阪神が交渉権を獲得した。
ボイコットした巨人は「12球団が揃っていないドラフトは無効」とし大きな騒動となった。その後、金子鋭コミッショナーの「強い要望」により江川選手は阪神に入団後トレードという形で巨人への入団する運びとなる。
巨人から阪神に移籍したのは、3年連続で二ケタ勝利をマークしていた小林繁選手だったということも大きな衝撃を与えている。プロで投げていない選手に対しエース級の選手を放出したのだ。小林選手は阪神へ移籍した初年度に22勝(9敗)で最多勝のタイトルを獲得し意地を見せ「悲劇のヒーロー」扱いとなった。
この一連のできごとから江川選手には「ヒール」のイメージがつきまとっている。

巨人への憧れで拒否した選手達

江川選手以降にも巨人への入団希望を強く持ち、他球団からの指名を拒否した選手はいる。野茂選手に沸いた1989年ドラフトで、福岡ダイエーホークスから指名を受けた元木大介選手(近大附属高)もその一人だ。
巨人を希望していた元木選手は、ダイエーへの入団を拒否しハワイへと野球留学を行う。翌1990年に巨人から1位指名を受け無事に入団を果たした。
また、長野久義選手(日本大→Honda)は北海道日本ハムファイターズ(2006年)、千葉ロッテマリーンズ(2008年)と2度も入団を拒否。2009年に3度目の正直で巨人からの指名を受け入団を果たしている。
2011年ドラフト会議では、原辰徳監督(当時)の甥っ子である菅野智之選手(東海大)を日本ハムが強行指名。巨人と抽選の末日本ハムが交渉権を獲得した。
しかし、菅野選手は入団を拒否し東海大に残り翌年のドラフトを待つことを選択。1年後の2012年ドラフトでは無事に巨人から単独で1位指名を受け入団に至っている。 ドラフトにおける入団拒否。今後、江川選手のような大きな「事件」が起こることはないだろう。
しかし、選手の希望にメジャーリーグが加わってくるとその限りではない。日米を含めた争奪戦が始まると、入団拒否が増えることもありえるかもしれない。ドラフト前に各選手達の進路志望にもチェックを行っていくことでドラフト会議がより一層、楽しめるだろう。