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ドラフト指名を拒否した選手のドラマを紹介

2017 3/3 18:51
新人選手
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Photo by Thorsten Schmitt/Shutterstock.com

プロ野球のドラフトでは、必ずしも自分の希望する球団に入れるとは限らない。 そんなルールが、これまでさまざまなドラマを生み出してきた。 ドラフトの悲喜こもごもの歴史を振り返っていく。

4度もドラフト指名を拒否した藤沢公也氏

1969年夏の甲子園でエースピッチャーとして準決勝まで進出し、一躍プロ球団の注目の的となった藤沢公也氏。同年のドラフトでロッテオリオンズから3位に指名されるも入団を拒否した。その後は社会人野球に進み、都市対抗で活躍。何度もさまざまなチームからドラフト指名を受けるが、そのたびに拒否する。理由は「プロでやっていく自信がないから」という、実に単純なものだった。
しかし、1977年オフに中日ドラゴンズから1位指名を受け、ついに入団を決意する。1年目に巧みな投球術で13勝を挙げて新人王に輝き、その実力は確かなものだったことを証明した。通算4度の入団拒否は、2016年現在最多の記録となっている。

家庭の事情で入団を拒否した木田勇氏

甲子園でベスト4、社会人野球の都市対抗戦でも決勝までチームを導く原動力となった木田勇氏は、1979年に3球団からドラフト指名を受けるも拒否する。神奈川県にいる両親が体調不良で地元を離れるわけにいかない、というのが理由だった。
翌1980年にまたしても3球団から指名を受け、交渉権を引き当てた日本ハムに覚悟の入団をする。ルーキーイヤーは速球を軸にカーブやパームボールも織り交ぜて打者を翻弄、驚異的な活躍を見せる。最終的に22勝4セーブを挙げ、防御率など投手3冠に輝いてチームを優勝に導いた。さらに同年、新人では初のMVPにも選ばれている。

国会をもゆるがした「空白の一日」事件を巻き起こした江川卓氏

学生時代、向かうところ敵なしだった江川卓氏。在京球団という希望が叶えられず2回ドラフト指名を拒否した。ところが1977年オフ、突然読売巨人軍が江川氏との契約を発表す。ドラフト会議前日は、前年指名した球団が当該選手との交渉権を失うという協約の盲点、「空白の一日」をついた契約だった。
しかし、ドラフト制度の根幹に関わるとして他球団から猛反発が起き、結局入団は取り消される。巨人もこれに異を唱えたが、妥協点として行われたのが、同年のドラフトで阪神が江川氏を1位指名し、翌年に巨人のエースだった小林繁氏とトレードをすることだった。トレードは無事に行われ、騒動は終結したが、職業選択の自由に関わる問題として国会でも取り上げられ、関係者も招致された。

念願のプロ入りへ入念な準備をした川口和久氏

高校時代から本格派左腕投手として注目を集めていた川口和久氏は、1977年のドラフトでロッテオリオンズから6位指名を受けたものの、「プロでやっていく自信がない」として入団を拒否、社会人野球のデュプロに就職した。
そんな中でも広島東洋カープのスカウトは彼に注目し続け、他の球団のスカウトが視察に来てもケガで全力投球ができないフリをするようアドバイスして、本人も実践していた。そして1980年のドラフトで広島の指名を受け入団する。打者の的を絞らせない荒れ球が魅力で、1980年代から90年代に先発投手として投手王国広島の一角を担った。

初志貫徹で憧れの巨人に入団した元木大介氏

上宮高校時代、甲子園で通算6本塁打を放つなどスラッガーとしてプロの注目を集めた元木大介氏。本人は読売巨人軍入りを熱烈に希望していたが、1989年のドラフトで巨人が指名したのは慶応大学出身の大森剛氏だった。元木氏は福岡ダイエーホークスの外れ1位で指名され、記者会見ではこわばった表情を見せた。
結局、ダイエーからの指名を拒否し、1年間ハワイでトレーニングしながら指名を待つ浪人生活に入った。そして、1990年のドラフトで巨人から1位指名を受け、初志貫徹を果たしたのだ。プロでは長打力は鳴りを潜めたものの、走攻守で相手の嫌がるプレーを見せつけ、「クセ者」として活躍した。

まとめ

ドラフト指名を拒否した選手の背景には、実にさまざまなドラマが展開されている。 このような事情を理解しながらその選手のプロ生活を見ていくと、また違った楽しみ方があるのではないだろうか。

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