10月20日にドラフト会議
2022年のプロ野球ドラフト会議は10月20日に行われる。言うまでもなく、プロを夢見るアマチュア選手にとって、ドラフト当日は、人生が変わるかも知れない「運命の1日」。指名されても希望の球団とは限らず、悲喜こもごものドラマがファンを惹きつけるのも確かだ。
最近でこそセ・パ両リーグや球団による人気、収入格差が小さくなり、12球団OKという選手が増えてきたが、かつては入団を拒否する選手も少なくなかった。これまでドラフト指名されながら入団拒否した選手を振り返る。
2022年のプロ野球ドラフト会議は10月20日に行われる。言うまでもなく、プロを夢見るアマチュア選手にとって、ドラフト当日は、人生が変わるかも知れない「運命の1日」。指名されても希望の球団とは限らず、悲喜こもごものドラマがファンを惹きつけるのも確かだ。
最近でこそセ・パ両リーグや球団による人気、収入格差が小さくなり、12球団OKという選手が増えてきたが、かつては入団を拒否する選手も少なくなかった。これまでドラフト指名されながら入団拒否した選手を振り返る。
1969年夏、八幡浜高のエースとして愛媛大会準決勝に進出し、同年の甲子園で優勝する松山商に敗れたものの、一躍プロ注目右腕となった藤沢公也。同年ドラフトでロッテから3位指名されたが入団を拒否した。
卒業後は社会人野球の日本鉱業佐賀関に進み、都市対抗などで活躍。1971年ドラフトでヤクルトから11位指名、1973年ドラフトでは近鉄から4位指名、1976年ドラフトで日本ハムから2位指名を受けたが、全て拒否した。「プロでやっていく自信がないから」という理由だった。
しかし、1977年ドラフトで中日から1位指名を受け、ついに入団を決意。すでに26歳、妻子持ちとなっていた。
巧みな投球術で1年目から13勝を挙げて新人王と最高勝率を獲得。実力は確かなものだったことを証明した。その後は目立った実績を上げられず、通算27勝35敗1セーブの成績を残して1984年に引退。通算4度の入団拒否は最多記録となっている。
横浜一商(現横浜商大高)時代に夏の神奈川大会でベスト4入りし、社会人野球の日本鋼管に進んで都市対抗決勝までチームを導く原動力となった左腕・木田勇。
1978年に大洋、広島、阪急の3球団からドラフト1位指名を受け、広島が交渉権を獲得したが入団を拒否した。神奈川県にいる両親が体調不良で地元を離れるわけにいかない、というのが理由だった。
翌1979年にまたしても3球団(巨人、日本ハム、大洋)から指名を受け、交渉権を引き当てた日本ハムに入団。ルーキーイヤーから速球を軸にカーブやパームボールも織り交ぜて驚異的な活躍を見せ、22勝8敗4セーブをマークした。
最多勝、最優秀防御率、最高勝率の3冠に輝き、当時はタイトルではなかったものの最多奪三振も含めて事実上の4冠だった。さらに新人王に加え、新人として史上初のMVPも受賞。大洋、中日とわたり歩いて1990年に引退するまで、通算60勝を挙げた。
作新学院高時代に「怪物」と呼ばれ、法政大で通算47勝を挙げた江川卓。高校3年だった1973年ドラフトで阪急の1位指名を拒否し、大学4年だった1977年ドラフトではクラウンライターの1位指名を拒否した。
作新学院職員としてアメリカに留学していた1978年、ドラフト会議前日に巨人が江川との契約を突如発表。ドラフト前日は、前年指名した球団が当該選手との交渉権を失うという協約の盲点、いわゆる「空白の一日」をついた電撃契約だった。
しかし、ドラフト制度の根幹に関わるとして他球団から猛反発を招き、結局入団は取り消される。巨人もこれに異を唱えてドラフト会議をボイコット。結局、同年ドラフトでは阪神が交渉権を獲得した。
事態が膠着する中、妥協案としてコミッショナーから示された「強い要望」が、江川をいったん阪神に入団させ、巨人のエースだった小林繁と交換トレードするというウルトラC。翌1979年のキャンプイン前日にトレードが成立し、騒動は終結したが、職業選択の自由に関わる問題として国会でも取り上げられるなど、プロ野球界を超えて世間の大きな関心事となった。
鳥取城北高時代から本格派左腕として注目を集めていた川口和久は、1977年のドラフトでロッテから6位指名を受けたものの、「プロでやっていく自信がない」として入団を拒否。社会人野球のデュプロに就職した。
住友金属の補強選手として都市対抗に出場するなど実力をつけ、1980年のドラフトで広島から原辰徳の外れ1位指名を受けて入団する。
打者に的を絞らせない荒れ球で、3年目に15勝をマーク。1980年代から90年代に先発投手として投手王国広島の一角を担った。巨人移籍後の1998年に引退するまで通算139勝を挙げた。
上宮高時代、甲子園で通算6本塁打を放つなどスラッガーとしてプロの注目を集めた元木大介。巨人入りを熱烈に希望していたが、1989年ドラフト会議で巨人が指名したのは慶応大の大森剛だった。元木は野茂英雄を外したダイエーから1位で指名され、記者会見ではこわばった表情を見せた。
当時のダイエー監督は田淵幸一。自身も法政大時代に巨人入りを熱望しながら阪神から指名されて入団した経緯があり、元木の説得に自信を見せていた。しかし、元木はの意思は変わらず入団を拒否。1年間ハワイでトレーニングしながら指名を待つ浪人生活に入った。
翌1990年ドラフトで念願の巨人から1位指名。高校時代はスラッガーとして名を馳せたが、プロ入り後は「くせ者」と呼ばれるなど15年間、走攻守で活躍した。
今年のドラフト候補は「不作」という声も聞かれるが、夏の甲子園ではレベルの高いプレーを見せる選手も目立った。野球に携わる全ての人にとって、居ても立っても居られない「運命の1日」。プロ志望届を提出した選手は静かにその時を待っている。
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