「あらよっと」でバレた人力車夫事件
1920年に始まった箱根駅伝は、2022年の大会で98回目を迎える。長い歴史の中には名勝負はもちろん、「珍事件」も多数あった。箱根駅伝の「事件簿」を振り返る。
大会が始まった当初は社会情勢も何もかもが違うだけに、今では考えられないようなことが、初期の箱根では起きている。中でも1925年の6回大会での日大による「人力車夫事件」はあまりにも有名だ。
この事件の前に当時の箱根で問題になっていたことを説明しなくてはならない。
当時はまだ、人力車が交通手段として用いられていた時代。大学側は長距離の速い選手を出場させるためにこの人力車夫に目をつけた。「夜間部」に在籍させて「学生」であるとし、箱根に出場させた。
ところが、「新聞や牛乳を配達し、夜間に通学している学生は、収入を得ているのでプロだ」との意見が出て、1923年の4回大会から夜間部学生の出場を禁じることになった。
そういった取り決めがあったにもかかわらず、日大は1925年の大会で、替え玉で人力車夫を走らせてしまう。替え玉ランナーは3区を担当。しかしながら、人力車の時の癖で追い抜く際に「あらよっと」と声を上げてしまい、人力車夫であることがばれたと言われている。
替え玉がばれたにもかかわらず、日大の記録が取り消されることはなかったが、この不祥事の責任を取り、日大は翌年の参加を辞退している。
1938年の19回大会では2位でゴールした明大に不祥事があった。6区の選手が日本放送協会との二重登録問題を問われ、失格扱いに。さらに、1年間の出場停止処分を受けた。
関東以外の大学が出場した歴史も
事件ではないのだが、関東の大学しか走れない箱根で、関東以外の大学が走ったことがあった。
1928年の9回大会では関大が特別招待されて9位に入った。その後も12、13回大会に招待されて、ともに8位に入っている。
また、1964年の40回大会でも立命大と福岡大がオープン参加で出場し、立命大が11位、福岡大が13位でゴールしている。
最近では青学大の原晋監督が「箱根の全国化」を唱えているが、過去にそのチャンスがあったことが分かる。
たすきを忘れた亜大
1980年の56回大会では名門の中大が手痛いミスを犯した。7、8区のメンバーを間違って登録してしまった。実際に走った選手は違うので区間記録や総合順位も無効になった。
その10年後の66回大会では珍事件中の珍事件が起きる。舞台は山下りの6区。亜大の田中寛重は思いっきり飛び出したものの、途中でたすきをかけ忘れていたことに気づく。
肝心のたすきは前日は5区を走り、復路は付き添いにきていた選手の首に掛かっていた。田中は急いで戻り、たすきをかけたものの、40秒近いロスを出してしまった。
コースを間違えてもシード権を獲得した国学院大
2011年の87回大会も伝説の珍事件が起きている。
10位までがシード権を得られる中、最終10区の残り1キロを切って8~11位に国学院大、日体大、青学大、城西大の4チームが集団で競り合う展開。残り200メートルを切って集団から飛び出したのは、初のシード権を狙う国学院大の寺田夏生だった。
狙い通りのスパートだったが、1年生の寺田は残り120メートル付近で中継車を追ってしまい、コースを間違えるハプニング。「頭が真っ白で、何も分からなかった」。だが、最後の力を振り絞り、城西大を抜いてゴール。何とかシード圏内ぎりぎりの10位に滑り込んだ。
寺田がコースを間違えた交差点はファンからは「寺田交差点」と言われている。なお、寺田は大学卒業後もJR東日本で選手を続け、マラソンでは2時間8分3秒の自己ベストを持つランナーに成長している。
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