プロ野球における背番号24の名選手たち|【SPAIA】スパイア

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プロ野球における背番号24の名選手たち


2017年現役選手の背番号「24」

読売ジャイアンツの高橋由伸監督の背番号でもある「24」。2017年各球団の背番号「24」の着用は下記のとおり。

日本ハム:森本龍弥選手(内野手)
ソフトバンク:長谷川勇也選手(外野手)
ロッテ:吉田裕太選手(捕手)
西武:永久欠番(稲尾和久選手)
楽天:福田将儀選手(外野手)
オリックス:宮﨑祐樹選手(外野手)
広島:横山弘樹選手(投手)
巨人:高橋由伸監督(監督)
DeNA:林昌範選手(投手)
阪神:横田慎太郎選手(外野手)
ヤクルト:星知弥選手(投手)
中日:福谷浩司選手(投手)

監督:1球団
不在:0球団
永久欠番:1球団
投手:4球団
捕手:1球団
内野手:1球団
外野手:4球団

投手、捕手、内野手、外野手、監督が背負っている背番号「24」。永久欠番の埼玉西武ライオンズを除き11球団が使用している。
過去を振り返っても投手の稲尾和久選手、内野手の中畑潔選手など投手、野手ともに名選手が背負っており番号自体のイメージはついていないといえるだろう。

巨人における背番号「24」

2017年シーズン、読売ジャイアンツの背番号「24」は高橋由伸監督が着用している。これは、1998年にプロ入りした時から変わっていない。

巨人における背番号「24」の歴史を振り返ってみると、1962年に宮田征典選手が着用しているのが目にとまる。宮田選手はリリーフエースとして活躍し、試合の終盤にさしかかる20時半にマウンドに登ることが多かったため「20時半の男」とも呼ばれていた選手だ。1965年には69試合に登板し20勝をマークするなどの実績を残している。引退後も数球団でコーチを務めた名指導者だ。

その後3選手を挟み1976年には、ドラフト3位で駒澤大学からプロ入りを果たした中畑清選手へと受け継がれた。中畑選手は「絶好調」のフレーズを好み、元気溢れるプレーでレギュラーを奪取した。1989年までの現役生活で打撃タイトルの獲得はなかったもののゴールデングラブ賞(一塁手)を7年連続で受賞。引退後は横浜DeNAベイスターズで監督も務めている。

中畑選手以降は大森剛選手、石毛博史選手、カステヤーノ選手が同番号を着用。そして1997年ドラフト1位(逆指名)で入団した高橋選手(現・監督)に受け継がれたのだ。監督の後に同じ番号を背負うのは大きなプレッシャーとなるのは想像に難くない。高橋監督からどのような選手にこの番号が引き継がれるか注目が集まる。

「神様、仏様、稲尾様」こと稲尾和久選手

「神様、仏様、稲尾様」「鉄腕」などのフレーズで有名な稲尾和久選手。1956年に西鉄ライオンズへ入団すると24勝、防御率1.06の成績を残し最優秀防御率のタイトルを獲得し新人王に輝いた。1年目から1963年まで8年連続で20勝以上を達成。1961年には日本記録であるシーズン42勝をマーク。まさに鉄腕と呼ぶにふさわしい投球を見せていた。

シーズンだけでなく日本シリーズでも稲尾選手は結果を残している。1958年に行われた読売ジャイアンツとの日本シリーズ。3連敗から4連勝を果たしたことで有名だが、稲尾選手は6試合に登板し第3戦から第7戦まで5連投。4勝全てを稲尾選手がマークしている。第7戦の翌日に「神様、仏様、稲尾様」のフレーズが新聞などを賑わせたのだ。

稲尾選手は入団から引退する1969年まで背番号「24」を背負い続けていた。1970年から監督を務めるがその際も背番号は変更せず「24」を着用。1972年オフに「81」となるまで17年間にわたり使用していたのだ。その後も、ロッテオリオンズの監督を務めるなど1986年までユニフォームを着て現場で指導を行っていた。しかし、2007年に悪性腫瘍のために70歳で亡くなっている。

西鉄ライオンズの後継球団でもある埼玉西武ライオンズは、稲尾選手の生誕75年を記念して2012年に背番号「24」を永久欠番とした。また記念試合では西武の選手、コーチ、監督全員が「24」を着用して試合に臨んでいる。これは、日本プロ野球で初の事例となった。

「ザ・キャッチ」ことウィリー・メイズ選手

メジャーリーグ史上で最高のセンターと称されることもあるウィリー・メイズ選手。1951年にニューヨーク・ジャイアンツ(後にサンフランシスコ・ジャイアンツ)でメジャーデビューを果たし、1973年まで現役でプレー。首位打者1回、本塁打王4回、盗塁王4回のタイトルを獲得し新人王、MVP2回も受賞している。
また、打撃だけでなく守備も一級品であり、12年連続でゴールドグラブ賞にも輝いた。まさに走攻守そろった選手といえるだろう。

そのメイズ選手のプレーで象徴的なのは「ザ・キャッチ」と呼ばれるプレーだろう。クリーブランド・インディアンスと争った1954年のワールドシリーズ第1戦。2-2で迎えた8回表無死一二塁の場面でインディアンスのビク・ワーツ選手はメイズ選手の守るセンターへ大飛球を放った。
誰もが抜けたと思った当たりだったが、メイズ選手はほぼ打球を見ることなく全速力で落下点に入り背走のままキャッチ。絶体絶命のピンチを救ったのだ。

今でも、外野手が背走のままキャッチをすると「ザ・キャッチ」と呼ばれるほど、このプレーはファンの頭に焼き付いている。

その後、メイズ選手が背負った「24」はジャイアンツで永久欠番となった。

全米1位から野球殿堂入り!ケン・グリフィー・ジュニア選手

イチロー選手(マーリンズ)とも仲がよいことで知られていたケン・グリフィー・ジュニア選手。2016年にアメリカ野球殿堂入りを史上最高得票率となる99.3%で果たしたレジェンドだ。また、父であるケン・グリフィー・シニア選手は「ビッグレッドマシン」と呼ばれていた1970年代のシンシナティ・レッズで活躍していた二世選手でもある。

1987年のドラフトにおいて全米1位でシアトル・マリナーズ入りを果たすと、1989年にメジャーデビュー。1994年に初の打撃タイトルとなる本塁打王を獲得。その後も1997年から1999年まで3年連続で本塁打王に輝くなどメジャーリーグを代表する強打者となった。
2000年に父も在籍したレッズに移籍。その後、シカゴ・ホワイトソックスを経て2009年にマリナーズへ戻ってくる。ここで初めてイチロー選手とチームメイトとなった。

このとき、ケン・グリフィー・ジュニア選手は39歳と言うこともあり全盛期のような活躍はできなかった。しかし、多くのファンに愛され翌2010年に現役を引退。通算630本塁打を放ちマリナーズで背負った背番号「24」は野球殿堂入りと同時に永久欠番となった。

1990年代は禁止薬物が多く使用された時代だ。しかし、その中でケン・グリフィー・ジュニア選手は常にクリーンを保っており、疑惑とは一切無縁だったことでも知られている。

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