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投手にも野手にも名選手!プロ野球における背番号24の選手たち

2020 7/1 11:35SPAIA編集部
巨人・大城卓三(左)とソフトバンク・長谷川勇也ⒸSPAIA
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ⒸSPAIA

2020年現役選手の背番号「24」

2020年各球団の背番号「24」は下記の通り。

西武:永久欠番(稲尾和久)
ソフトバンク:長谷川勇也外野手
楽天:黒川史陽内野手
ロッテ:東妻勇輔投手
日本ハム:野村佑希内野手
オリックス:紅林弘太郎内野手
巨人:大城卓三捕手
DeNA:齋藤俊介投手
阪神:不在
広島:不在
中日:福谷浩司投手
ヤクルト:星知弥投手

不在:2球団
永久欠番:1球団
投手:4球団
捕手:1球団
内野手:3球団
外野手:1球団

投手、捕手、内野手、外野手が背負っている背番号「24」。永久欠番の西武を除く11球団が使用しているが、阪神は横田慎太郎の引退以降は不在、広島も横山弘樹が引退したため不在となっている。

過去を振り返っても稲尾和久、中畑清ら投手、野手ともに名選手が背負っており、番号自体のイメージはついていないと言えるだろう。

巨人における背番号「24」

巨人の背番号「24」は現役時代から背負ってきた高橋由伸前監督から、2019年のクックを挟んで2020年シーズンは大城卓三が着用している。

巨人における背番号「24」の歴史を振り返ってみると、1962年に宮田征典が着用しているのが目にとまる。宮田はリリーフエースとして活躍し、試合の終盤にさしかかる午後8時半頃にマウンドに登ることが多かったため「8時半の男」とも呼ばれていた。1965年には69試合に登板し20勝をマークするなど実績を残した。引退後も数球団でコーチを務めた名指導者だ。

その後、4選手を挟み、1976年にはドラフト3位で駒澤大学からプロ入りを果たした中畑清に受け継がれた。中畑は「絶好調」のフレーズでお馴染みとなり、ガッツ溢れるプレーでレギュラーを奪取した。1989年までの現役生活で打撃タイトルの獲得はなかったもののゴールデングラブ賞(一塁手)を7年連続で受賞。引退後はDeNAで監督を務めた。

中畑以降は大森剛、石毛博史、カステヤーノが着用。そして1997年にドラフト1位(逆指名)で入団した高橋由伸が受け継ぎ、監督就任後もそのまま背負っていた。

名選手、特に前監督と同じ番号を背負うのは大きなプレッシャーとなるのは想像に難くない。大城卓三はそれだけ球団の期待も大きいということだろう。今後の活躍に注目だ。

「神様、仏様、稲尾様」こと稲尾和久

「神様、仏様、稲尾様」「鉄腕」などのフレーズで有名な稲尾和久。1956年に西鉄へ入団すると21勝、防御率1.06の成績を残し、最優秀防御率と新人王に輝いた。1年目から1963年まで8年連続で20勝以上を達成。1961年には日本記録であるシーズン42勝をマークするなど、まさに鉄腕と呼ぶにふさわしい投球を見せていた。

シーズンだけでなく日本シリーズでも稲尾は結果を残している。1958年に行われた巨人との日本シリーズ。3連敗から4連勝したことで有名だが、稲尾は6試合に登板し、第3戦から第7戦まで5連投。4勝全てを稲尾がマークした。第7戦の翌日に「神様、仏様、稲尾様」のフレーズが新聞などを賑わせたのだ。

稲尾は入団から引退する1969年まで背番号「24」を背負い続けた。1970年から監督を務めた際も背番号は変更せず「24」を着用。1972年オフに「81」となるまで17年間にわたり使用していた。その後も、ロッテの監督を務めるなど1986年までユニフォームを着て指導していた。2007年に悪性腫瘍のために70歳で亡くなっている。

西鉄の後継球団でもある西武は、稲尾の生誕75年を記念して2012年に背番号「24」を永久欠番とした。また記念試合では西武の選手、コーチ、監督全員が「24」を着用して試合に臨んでいる。これは、日本プロ野球で初の事例だった。

「ザ・キャッチ」ことウィリー・メイズ

メジャーリーグ史上で最高のセンターと称されることもあるウィリー・メイズ。1951年にニューヨーク・ジャイアンツ(後にサンフランシスコ・ジャイアンツ)でメジャーデビューを果たし、1973年まで現役でプレー。首位打者1回、本塁打王4回、盗塁王4回のタイトルを獲得し新人王、MVPも2回受賞している。

また、打撃だけでなく守備も一級品であり、12年連続でゴールドグラブ賞にも輝いた。まさに走攻守そろった名選手だった。

そのメイズを象徴するのが「ザ・キャッチ」と呼ばれるプレーだろう。クリーブランド・インディアンスと争った1954年のワールドシリーズ第1戦。2-2で迎えた8回表無死一二塁の場面でインディアンスのビク・ワーツはメイズの守るセンターへ大飛球を放った。

誰もが抜けたと思った当たりだったが、メイズはほぼ打球を見ることなく全速力で落下点に入り背走のままキャッチ。絶体絶命のピンチを救った。

今でも、外野手が背走のままキャッチをすると「ザ・キャッチ」と呼ばれるほど、このプレーはファンの脳裏に焼き付いている。その後、メイズが背負った「24」はジャイアンツの永久欠番となった。

全米1位から野球殿堂入りしたケン・グリフィー・ジュニア

イチロー(マーリンズ)とも仲がよかったことで知られるケン・グリフィー・ジュニア。2016年にアメリカ野球殿堂入りを史上最高得票率となる99.3%で果たしたレジェンドだ。また、父であるケン・グリフィー・シニアは「ビッグレッドマシン」と呼ばれていた1970年代のシンシナティ・レッズで活躍していた二世選手でもある。

1987年のドラフトにおいて全米1位でシアトル・マリナーズ入りすると、1989年にメジャーデビュー。1994年に初の打撃タイトルとなる本塁打王を獲得。その後も1997年から1999年まで3年連続で本塁打王に輝くなどメジャーリーグを代表する強打者となった。

2000年に父も在籍したレッズに移籍。その後、シカゴ・ホワイトソックスを経て2009年にマリナーズへ戻る。ここで初めてイチローとチームメイトになった。

このとき、ケン・グリフィー・ジュニアは39歳ということもあり、全盛期のような活躍はできなかった。多くのファンに惜しまれつつ翌2010年に現役を引退。通算630本塁打を放ち、野球殿堂入りと同時にマリナーズで背負った背番号「24」は永久欠番となった。

1990年代は禁止薬物の使用疑惑が多かった時代だ。しかし、その中でケン・グリフィー・ジュニアは常にクリーンさを保ち、疑惑とは一切無縁だったことでも知られている。

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