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プロ野球における背番号22の名選手たち

2017 12/31 19:05cut
ピッチャー
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Andrey Yurlov/Shutterstock.com

2017年現役選手の背番号「22」

投手、捕手のバッテリーに多く着用されている背番号「22」。2017年各球団の背番号「22」は下記の選手が背負っている。

日本ハム:不在
ソフトバンク:斐紹選手(捕手)
ロッテ:田村龍弘選手(捕手)
西武:中塚駿太選手(投手)
楽天:戸村健次選手(投手)
オリックス:伊藤光選手(捕手)
広島:中村恭平選手(投手)
巨人:小林誠司選手(捕手)
DeNA:高崎健太郎選手(投手)
阪神:藤川球児選手(投手)
ヤクルト:竹下真吾選手(投手)
中日:大野雄大選手(投手)

不在:1球団
永久欠番:0球団
投手:7球団
捕手:4球団
内野手:0球団
外野手:0球団

捕手で背番号「22」を背負うのは田淵幸一選手の影響が大きいだろう。しかし、田淵選手が在籍していた阪神タイガース、西武ライオンズはともに投手が背番号「22」と着用しており捕手の番号となっていない。

「JFK」の一角!藤川球児選手

藤川球児選手(阪神)は松坂大輔選手(ソフトバンク)を中心とした「松坂世代」(1980年4月2日?1981年4月1日生まれ)の一人だ。1998年ドラフト1位で高知商業高校から阪神へ入団。入団当初の背番号は「30」だった。その後、名前の「球児」にあやかり「92」を背負っていたが、2005年から「22」へと変更。この年に藤川選手はJFKと呼ばれる鉄壁の中継ぎ陣を結成し、リーグ優勝に大きく貢献した。

2007年からはクローザーとなり2度の最多セーブ投手を獲得。2012年オフにメジャーリーグのシカゴ・カブスへと移籍している。メジャーリーグではカブス、テキサス・レンジャーズの2球団でプレーしたが背番号「22」を着用することはなかった。

2015年6月に日本へ戻り四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスへと移籍。ここでも背番号「22」を背負うことはなく「11」を背負っていた。その後、阪神に復帰した2016年はエースナンバーと呼ばれることの多い背番号「18」を着用したが、以前の番号である「22」に愛着があり2017年シーズンからは変更している。

「大魔神」こと佐々木主浩選手

1989年にドラフト1位で東北福祉大学から横浜大洋ホエールズへ入団した佐々木主浩選手。2年目から守護神として活躍し、1995年から4年連続で最優秀救援投手を獲得するなど計5回タイトルを手にしている。1998年のリーグ優勝時、西武ライオンズと争われた日本シリーズでも胴上げ投手となった。
その後、1999年オフにFA権を行使しメジャーリーグへ移籍。佐々木選手を獲得したのはシアトル・マリナーズだった。当時オリックスのイチロー選手が入団を果たす1年前のことである。

メジャー初年度となる2000年からクローザーに定着。途中、不振もあり中継ぎへ降格することがあったものの、37セーブを記録し新人王を受賞。翌2001年は45セーブをマークし、2016年終了時点でもメジャー記?であるシーズン116勝に大きく貢献した。
2003年までの4年間マリナーズでプレーし通算129セーブを挙げ、2004年から古巣・横浜ベイスターズへ復帰。しかし、2年間で23セーブしかマークできず現役を引退している。

その後、コーチ、監督などでの現場復帰はなく背番号「22」は高崎健太郎選手へと受け継がれることになった。

「ミスターゼロ」こと高津臣吾選手

ヤクルトスワローズにおいて守護神として活躍し、1990年代の黄金時代を支えた高津臣吾選手。1990年に亜細亜大学からドラフト3位で入団し背番号「22」を着用。初年度に先発投手として初勝利を挙げている。2年目のシーズンも23試合に登板しているが11試合は先発となっており、当初は先発として期待されていた。

しかし、3年目の1993年は1試合の先発をのぞき、残りの55試合をリリーフとして登板。最終的にはクローザーとなり20セーブをマークした。この年、超大物ルーキーであった松井秀喜選手(巨人)に初本塁打を打たれた投手としても高津選手は名を残している。
後に野村克也監督が古田敦也捕手に「内角にストレートを投げ松井が打つか試してみろ」と指示をしていたことを明かしている。実際に松井選手を本塁打を放つさまを見て「松井は本物だな」と苦笑いだったようだ。

以降、高津選手はヤクルトの守護神として2003年まで4度の最優秀救援投手のタイトルを獲得。2004年からはシカゴ・ホワイトソックスへ移籍。背番号は「10」となったが中継ぎとして活躍し「ミスターゼロ」と呼ばれるまでになる。
2年間メジャーリーグでプレーし2006年にヤクルトへ復帰。1年目こそ背番号「11」だったが、復帰2年目の2007年に背番号「22」をつけ再び神宮球場のマウンドに戻ってきた。しかし、衰えは隠せず自由契約となった。その後は韓国、台湾、アメリカ・マイナーリーグ、日本の独立リーグでプレーしている。

「ホームランアーチスト」こと田淵幸一選手

稀代のホームランアーチストでもある田淵幸一選手。法政大学時代は山本浩二選手(元・広島)、富田勝選手(元・中日他)らとともに活躍し「法政三羽ガラス」と呼ばれていた。1968年のドラフト会議では読売ジャイアンツが指名すると思われていたが、阪神タイガースが1位指名。背番号「22」を与えられた。

1年目から117試合に出場し打率.226(359打数81安打)と低打率ながら22本塁打を放つ活躍を見せ、新人王を受賞。以降、阪神の正捕手として本塁打王争いの常連となる。しかし、同時代に王貞治選手(巨人)が活躍していたためにタイトルの獲得は長年できなかった。
初のタイトルを獲得したのは7年目のシーズンである1975年だ。この年の巨人は長嶋茂雄選手が引退した翌年と言うこともあり、王選手にマークが集中。また、王選手自身がキャンプで故障をしてしまい出遅れていた。その隙を突いて見事に田淵選手がタイトルを獲得したのだ。

通算474本塁打を放っている田淵選手ではあるが、打撃タイトルはこの1回のみである。その後、1978年オフに西武ライオンズへトレードで移籍。移籍策でも背番号「22」を背負っている。西武では6年間プレーし1984年に現役を引退。最終年度である1984年も14本塁打を放ち、入団以来16年間連続で二桁本塁打を達成。これは江藤慎一選手(元・中日他)と並んで歴代7位タイの記録でもある。

現役引退後は福岡ダイエーホークスで監督を勤めているが、その際の背番号は「22」ではなく「81」を着用している。

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