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捕手からクローザーの代名詞へ プロ野球における背番号22の選手たち

2024 7/6 06:00SPAIA編集部
中日の大野雄大、ヤクルトの高津臣吾監督、広島の高太一,ⒸSPAIA
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2024年現役選手の背番号「22」

プロ野球の背番号「22」と聞いて誰を思い浮かべるだろうか。22ほど投手、野手ともに名選手の多い番号はないかもしれない。2024年に背番号22をつける各球団の選手は以下の通りとなっている。

阪神:不在
広島:高太一投手
DeNA:入江大生投手
巨人:小林誠司捕手
ヤクルト:高津臣吾監督
中日:大野雄大投手

オリックス:村西良太投手
ロッテ:グレゴリー・ポランコ外野手
ソフトバンク:牧原巧汰捕手
楽天:小孫竜二投手
西武:古賀悠斗捕手
日本ハム:杉浦稔大投手

不在:1球団
永久欠番:0球団
投手:6球団
捕手:3球団
内野手:0球団
外野手:1球団
監督:1球団

かつて阪神、西武で捕手として活躍し、通算474本塁打を放った田淵幸一が「22」を背負っていたため捕手のイメージが強かったが、2024年は捕手が3球団で投手が6球団。中日の左腕エース・大野雄大が背負っているほか、現役時代に投手だったヤクルト・高津臣吾監督を含めると投手は7球団となる。

これは球史に残るクローザー、佐々木主浩と高津臣吾、さらに藤川球児がイメージを定着させたことが大きいだろう。日本ハムでは鶴岡慎也の引退に伴い、杉浦稔大が継承。捕手からクローザーに受け継がれた。

2024年に変更があったのは広島の1球団のみ。2017年ドラフト1位で入団した中村奨成がこの番号を入団時から6年間背負ってきたが、昨オフに「96」へ変更。ドラフト2位ルーキーの高太一が、かつて同じ左腕として活躍した高橋建(現二軍投手コーチ)の番号を受け継いだ。

捕手では、巨人のベテラン・小林誠司、西武の正捕手を務める古賀悠斗、ソフトバンクの牧原巧汰の3人が着用。捕手以外の野手ではロッテのグレゴリー・ポランコが12球団で唯一「22」を背負っている。

次章以降では、背番号「22」の系譜や着用していた歴代の名選手たちを紹介していく。

「ホームランアーチスト」田淵幸一

稀代のホームランアーチスト、田淵幸一。法政大学時代は山本浩二(元広島)、富田勝(元中日他)とともに「法政三羽ガラス」と呼ばれていた。1968年のドラフト会議では希望していた巨人ではなく、阪神が1位指名。背番号「22」を与えられた。

1年目から117試合に出場して背番号と同じ22本塁打を放って新人王に輝くと、以降は阪神の正捕手として本塁打王争いの常連となる。同時代に王貞治(巨人)がいたためにタイトルに届きそうで届かなかったが、7年目の1975年、ついに頂点に立った。

この年の巨人は長嶋茂雄が引退した翌年ということもあり、王にマークが集中。また、王自身がキャンプで故障して出遅れたこともあり、43本塁打の田淵がついにタイトルを獲得し、王の連続本塁打王を13年でストップした。

通算474本塁打を放っている田淵だが、打撃タイトルはこの1回のみ。その後、1978年オフに西武へ電撃トレードで移籍。移籍先でも背番号「22」を背負っている。

西武では6年間プレーし、1984年に現役を引退。ラストシーズンとなった1984年も14本塁打を放ち、プロ入り以来16年連続で二桁本塁打を達成した。これはルーキーイヤーからに限定すると、江藤慎一(元中日他)、阿部慎之助(元巨人)と並んで歴代6位タイの記録となっている。

「大魔神」佐々木主浩

捕手のイメージが強かった「22」をクローザーに変えたのが、1989年にドラフト1位で東北福祉大から大洋に入団した佐々木主浩だ。2年目から守護神として活躍し、1995年から4年連続で最優秀救援投手を獲得するなど計5回タイトルを手にしている。1998年にリーグ優勝し、西武と争った日本シリーズでも胴上げ投手となった。

その後、1999年オフにFA権を行使しメジャー移籍。佐々木を獲得したのはシアトル・マリナーズだった。当時オリックスのイチローが入団を果たす1年前のことである。

メジャー初年度の2000年からクローザーに定着。途中、不振もあり中継ぎへ降格することがあったものの、37セーブを記録し新人王に輝いた。翌2001年は45セーブをマークし、メジャー記録のシーズン116勝に大きく貢献した。

2003年までの4年間マリナーズでプレーし通算129セーブをマーク。2004年から古巣・横浜へ復帰し、2年間で23セーブを挙げ、日米通算381セーブを挙げた。

「ミスターゼロ」高津臣吾

ヤクルトで守護神として活躍し、1990年代の黄金時代を支えた高津臣吾。1990年に亜細亜大学からドラフト3位で入団し、背番号「22」を着用した。1年目に先発投手として初勝利を挙げ、2年目のシーズンも23試合に登板したうち、11試合は先発マウンドに立っていた。

しかし、3年目の1993年は1試合の先発を除き、55試合にリリーフとして登板。クローザーとして20セーブを挙げた。この年は、超大物ルーキーだった松井秀喜(巨人)に初本塁打を喫した投手としても記憶されている。

以降はヤクルトの守護神として2003年まで4度の最優秀救援投手のタイトルを獲得。2004年からはシカゴ・ホワイトソックスへ移籍した。背番号は「10」となったが中継ぎとして活躍し「ミスターゼロ」と呼ばれるまでになる。

2年間メジャーリーグでプレーし2006年にヤクルトへ復帰。1年目こそ背番号「11」だったが、復帰2年目の2007年に背番号「22」をつけ、再び神宮のマウンドに復帰した。結局、NPB通算286セーブ、メジャーでも27セーブをマークした。

その年オフに自由契約になると、その後は韓国、台湾、米マイナーリーグ、日本の独立リーグでプレー。2020年から古巣ヤクルトの監督として再び「22」のユニフォームに袖を通し、2021、2022年はリーグ連覇を達成。2021年は日本一にも輝いた。

「JFK」の一角・藤川球児

藤川球児も「22」を代表するクローザーの一人だろう。高知商からドラフト1位で阪神に入団した当初は背番号「30」。その後、名前の「きゅうじ」にあやかり「92」を背負っていたが、2005年から「22」へ変更してジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに「JFK」と呼ばれた鉄壁のリリーフ陣を形成した。

2006年途中からクローザーとなり2度、最多セーブのタイトルを獲得。2012年オフにメジャーリーグのシカゴ・カブスへと移籍している。メジャーリーグではカブス、テキサス・レンジャーズの2球団でプレーしたが背番号「22」を着用することはなかった。

2015年6月に日本へ戻り四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに移籍。ここでも「22」ではなく「11」を背負った。翌2016年に阪神に復帰した際も「18」を着用したが、2017年シーズンからは愛着のある「22」に変更した。

「松坂世代」の一人として40歳まで現役を続けたが、2020年限りで引退。名球会入りの条件である日米通算250セーブに「あと5」まで迫っていたが、潔くユニフォームを脱いだ。現在、阪神の「22」は空き番となっている。

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