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かつては野手、今は投手の象徴的ナンバー プロ野球における背番号16の選手たち

2023 5/20 06:00SPAIA編集部
(左から)オリックス・平野佳寿、楽天・石井一久監督,ⒸSPAIA
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2023年現役選手の背番号「16」

かつては野手の名選手が多かった背番号「16」だが、近年は投手が着用することが増えた。2023年、各球団の背番号「16」は下記の選手が背負うことになった。

オリックス:平野佳寿投手
ソフトバンク:東浜巨投手
西武:隅田知一郎投手
楽天:石井一久監督
ロッテ:種市篤暉投手
日本ハム:達孝太投手

ヤクルト:原樹理投手
DeNA:大貫晋一投手
阪神:西勇輝投手
巨人:永久欠番(川上哲治)
広島:森翔平投手
中日:不在

永久欠番:1球団
不在:1球団
監督:1球団
投手:9球団
捕手:0球団
内野手:0球団
外野手:0球団

巨人が川上哲治を讃え、永久欠番としている背番号「16」。2023年は、現役時代に投手として活躍した楽天・石井一久監督含め、すべて投手が背負っている。各球団ともにエース級、または中継ぎ、抑えの核となる投手やドラフトで上位指名された有望株が使用しており、番号の重みがよくわかる。

昨季から変更となったのは2球団。楽天は3年間背負っていた涌井秀章が中日へ移籍。現役時代に「16」を付けていた石井監督が今季から着用している。中日は昨季背負っていた岩嵜翔がトミー・ジョン手術を受け育成契約となったため、今季は空き番となっている。

オリックスではベテラン39歳の平野佳寿が着用。渡米していた2018~2020年を除き15年間「16」を背負ってきた右腕は、4月28日に800試合登板を達成すると、5月14日には史上初の日米通算200ホールド&200セーブの快挙を成し遂げた、まさに生けるレジェンドだ。

西武では2021年のドラフト1位ルーキー・隅田知一郎が着用。松沼雅之(1979年-1989年)から潮崎哲也(1990年-2004年)、涌井秀章(2005年-2008年)、石井一久(2009年-2013年)、菊池雄星(2014年-2018年)、松坂大輔(2020年-2021年)と好投手が背負ってきたDNAを受け継ぐことができるか注目だ。

次章以降では、背番号「16」を背負った歴代のスタープレーヤーを紹介していく。

巨人の名選手、そして名監督の川上哲治

熊本工業高時代に甲子園で2度の準優勝を経験し、1938年(昭和13年)に東京巨人軍へ入団した川上哲治。吉原正喜、千葉茂、内海五十雄、岩本章、三田政夫、野村高義ら有力選手も同年に巨人入りを果たしており「花の昭和13年組」と呼ばれた。

川上は入団時から背番号「16」を背負い活躍。太平洋戦争を挟んで、1958年までプレーした。1979試合に出場し、通算2351安打。日本プロ野球界で初めて2000本安打を達成した選手でもある。

現役引退後、1961年から巨人の監督を務め、14年間で9連覇を含む11度のリーグ優勝。その全てで日本一に輝いた名将でもある。監督時は1961年から1964年までの4年間を現役時代と同じ「16」、1965年1月に永久欠番となってからは「77」となった。1965年から始まった9連覇はすべて背番号「77」で優勝している。

永久欠番となっているために1965年以降で背番号「16」を着用した選手はいないが、国民的アニメとなった「巨人の星」では主人公の星飛雄馬が背番号「16」を背負っている。

最強助っ人の一人、ラルフ・ブライアント

1988年、中日にやってきたラルフ・ブライアント。当時は一軍の外国人枠が2人までとなっており、枠の埋まっていた中日では二軍でプレーしていた。

しかし、シーズン途中に近鉄へ移籍すると大活躍。74試合の出場で打率.307(267打数82安打)、34本塁打、73打点の成績を残す。中日では背番号「49」を背負っていたが、近鉄では「16」を着用し、1995年に近鉄を退団するまで同番号でプレーした。

背番号「16」がもっとも輝いたと言えるのが、1989年の10月12日だろう。西武と近鉄のダブルヘッダーで4打数連続本塁打。優勝を争っていた西武に引導を渡し、近鉄優勝の立役者となった。以降も1993年、1994年と2年連続本塁打王に輝くなど息の長い活躍をみせている。

また、長距離ヒッターにありがちなフリースインガーでもあり三振も多く、1993年に記録した204三振はプロ野球史上最多だ。ブライアントは、本塁打か三振かといった魅力を兼ね備えていた選手だった。

2005年にオリックスの打撃コーチを務めた際も現役時代と同様に背番号「16」を着用。近鉄のユニフォームではなかったが、オールドファンを喜ばせた。

6球団競合から阪神入団の岡田彰布

早稲田大学時代に大学日本代表にも選ばれるなど注目を浴びていた岡田彰布。1979年ドラフト会議では当時史上最多となる6球団が1位指名で入札した。抽選の結果、希望していた阪神が交渉権を獲得。憧れの番号でもあった背番号「16」を与えられ、入団を果たした。

岡田が背番号「16」に憧れていたのは理由がある。幼少時、当時の阪神で背番号「16」を背負っていた三宅秀史とキャッチボールをした思い出があったからだ。

岡田はルーキーイヤーの1980年から108試合に出場。打率.290(376打数109安打)、18本塁打、54打点の成績を残し新人王に輝いた。1993年まで阪神でプレーし、晩年はオリックスへ移籍。オリックスでは「16」ではなく「10」でプレーしている。

現役引退後は2004年から2008年まで阪神の監督、2010年から2012年まではオリックスの監督を務めたが、両球団ともに「16」ではなく「80」で指揮を執った。

日本人史上2人目のメジャーリーガー・野茂英雄

1989年のドラフト会議において、史上最多となる8球団競合の末に近鉄に入団した野茂英雄。ルーキーイヤーの1990年から1994年まで球界を代表するエースとして活躍した。

4年連続最多勝を獲得するなど78勝を挙げ、1995年から海を渡ってメジャーリーグに挑戦。野茂が最初に契約したのは、アメリカ西海岸ロサンゼルスの名門・ドジャースだった。そのとき野茂に与えられた背番号が「16」だった。

1995年に野茂は「16」を背負い、マッシー村上こと村上雅則(ジャイアンツ)に次いで、日本人選手として史上2人目となるメジャーデビューを果たした。1998年までの4シーズンで野茂はこの番号でプレー。以降、メッツ、ブリュワーズ、タイガース、レッドソックスを渡り歩き、再びドジャースに戻ったときは背番号「10」でプレーした。

メジャーデビューを果たした1995年から1998年までのわずか4シーズンのみの着用ではあるが、野茂選手の背番号は「16」というイメージが強い。メジャーへの扉をこじ開けたインパクトが強いからだろう。

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