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オリックス西川龍馬、ロッテ藤岡裕大が新たに背負う野手番号 プロ野球における背番号7の選手たち

2024 4/19 06:30SPAIA編集部
オリックスの西川龍馬とロッテの藤岡裕大,ⒸSPAIA
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2024年現役選手の背番号「7」

野手の主力が背負うことの多い背番号「7」。2024年各球団の背番号「7」を見渡すと、2022年に投手へ転向した根尾昂が所属する中日を除く11球団で野手が着用している。

各球団の背番号「7」は下記の通りとなっている。

阪神:ノイジー外野手
広島:堂林翔太内野手
DeNA:佐野恵太外野手
巨人:長野久義外野手
ヤクルト:長岡秀樹内野手
中日:根尾昂投手

オリックス:西川龍馬外野手
ソフトバンク:中村晃外野手
西武:金子侑司外野手
楽天:鈴木大地内野手
ロッテ:藤岡裕大内野手
日本ハム:松本剛外野手

不在:0球団
永久欠番:0球団
投手:1球団
捕手:0球団
内野手:4球団
外野手:7球団

広島・堂林翔太やDeNA・佐野恵太、ソフトバンク・中村晃らチームの顔ともいえる選手たちがつけている背番号「7」。2024年からは新たに2選手がこの番号を背負う。

オリックスでは広島からFAで加入した西川龍馬が着用。2022年オフにメジャーへ移籍した、敦賀気比高の先輩でもある吉田正尚から「7」を受け継いだ形だ。新天地でも“天才”と称される巧みなバットコントロールで打線をけん引し、リーグ4連覇の立役者となれるか注目だ。

ロッテでは、藤岡裕大がプロ入りから6年間背負ってきた「4」から「7」に変更した。昨季は遊撃として93試合に出場し、自己最高となる打率.277をマーク。ポジションもセカンドへコンバートして心機一転、チームの柱としての活躍が期待される。

次章からは、背番号「7」を着用していた歴代の名選手たちを紹介していく。

「世界の福本」こと福本豊

プロ野球において最多盗塁記録保持者でもある福本豊は、1968年ドラフト7位で松下電器から阪急ブレーブスに入団。入団当時は背番号「40」を与えられており、2年目にレギュラーとなり盗塁王(75盗塁)を獲得。翌1971年も2年連続となる盗塁王(67盗塁)に輝くと、1972年から背番号「7」となった。

背番号を変更した1972年には、現在も日本記録となっているシーズン106盗塁をマーク。当時はメジャーリーグ記録が104盗塁で世界記録にもなった。以降も俊足巧打のリードオフマンとして活躍し、13年連続盗塁王に輝くなど20年間の現役生活で1065個の盗塁を積み上げた。また、115三塁打も日本記録となっている。

福本は「盗塁するためには、まず塁に出ることが大事」とも語り、打撃を重視していた。選球眼もよく、6シーズンでリーグ最多四球を獲得している。現役引退後の2002年には野球殿堂入りも果たし、背番号「7」は準永久欠番扱いとなっていたが、阪急からオリックスに親会社が変わったことで復活。進藤達哉、水口栄二、濱中治、糸井嘉男、吉田正尚らを経て、2024年から西川龍馬が背負うことになった。

広島一筋の野村謙二郎

駒澤大学から1988年ドラフト1位で広島東洋カープに入団した野村謙二郎は、入団当初から期待は大きく、背番号「7」を与えられた。2年目の1990年にレギュラー定着し、33盗塁でタイトル獲得。翌1991年も2年連続で盗塁王(31盗塁)に輝き、リーグを代表する選手へと成長した。

1995年には、生涯唯一の30本塁打超えとなる32本塁打をマークし、打率.315、32本塁打、30盗塁でトリプルスリーを達成。2005年まで現役を続け2020安打をマークして名球会入りも果たしている。

現役引退後は野球解説者を務めていたが、2010年に監督として広島に復帰し、その際の背番号は現役時代の「7」を重ねた「77」だった。自身が監督期間中に、それまで空き番となっていた「7」を堂林翔太へ禅譲している。

監督期間中に優勝を果たすことはできなかったが、2013年にチーム史上初のクライマックスシリーズ進出を果たし、翌2014年も2年連続でクライマックスシリーズ出場。2014年に監督を退任したが、2016年からのリーグ3連覇の地盤を作ったと言える。

その後はテレビ解説等で活躍しているが、1966年生まれで年齢的にも再び監督として現場に戻ってくる可能性はあるかもしれない。

史上最強のスイッチヒッター、ミッキー・マントル

メジャーリーグにおいて史上最強のスイッチヒッターとして、名前が挙がるミッキー・マントル。メジャー通算536本塁打は、スイッチヒッターとして史上最多で、MVPを3回受賞している偉大な選手だ。

マントルは1951年に背番号「6」をつけ、ニューヨーク・ヤンキースでメジャーデビューしている。後に背番号を「7」に変更し、現役引退となる1968年まで変わることはなかった。

1950年代のヤンキースは、マントルともうひとりのホームランバッターだったロジャー・マリスが在籍しており、ふたりの頭文字を取って「MM砲」として他球団から恐れられていた。

1956年には打率.353(533打数188安打)、52本塁打、130打点の成績でスイッチヒッターとして史上初の三冠王を獲得。通算では本塁打王4回、首位打者1回、打点王1回を獲得している。

輝かしい実績を残したマントルの背番号「7」は、引退の翌年にヤンキースで永久欠番として制定された。またアメリカ野球殿堂入りも果たしている。

主力選手へと受け継がれる巨人の背番号「7」

巨人の背番号「7」は主力選手に受け継がれているのが特徴だ。1951年に与那嶺要がつけ、1970年には「赤い手袋」がトレードマークの柴田勲が「12」から変更。その後スミスを挟み、1986年からは吉村禎章が「55」から変更し、主力として活躍した。吉村は1998年に引退したが、同年ドラフト2位(逆指名)で入団した二岡智宏が受け継いだ。

2008年まで「7」を着用して強打の遊撃手として実績を残した二岡が日本ハムに移籍したため、2009年は空き番。2010年から受け継いだのがドラフト1位ルーキーの長野久義だった。

長野は巨人愛を貫き、ロッテと日本ハムのドラフト指名を拒否して、3度目の正直で入団を果たした苦労人。背番号「7」を与えられた期待に応えて、入団2年目の2011年には打率.316で首位打者、翌2012年には173安打で最多安打のタイトルを獲得した。2013年には第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表にも選出されている。

長野はFAで加入した丸佳浩の人的補償として2019年から広島に移籍。新天地では「5」を背負ったが、2023年から古巣・巨人へ復帰し、再び「7」を着用している。

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