プロ野球で背番号4を背負った名選手たち|【SPAIA】スパイア

「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

プロ野球で背番号4を背負った名選手たち


2017年現役選手の背番号「4」

現役選手では東京ヤクルトスワローズのバレンティン選手が背番号「4」で大活躍しているが、他球団の選手はどうだろうか。

日本ハム:飯山裕志選手(内野手)
ソフトバンク:川島慶三選手(内野手)
ロッテ:不在
西武:不在
楽天:岡島豪郎選手(外野手)
オリックス:モレル選手(内野手)
広島:小窪哲也選手(内野手)
巨人:永久欠番(黒沢俊夫選手)
DeNA:荒波翔選手(外野手)
阪神:不在
ヤクルト:バレンティン選手(外野手)
中日:藤井淳志選手(外野手)

不在:3球団
永久欠番:1球団
投手:0球団
捕手:0球団
内野手:4球団
外野手:4球団

日本で背番号「4」は「死」を連想させることもあるためか、不在の球団が3球団ある。外国人選手が2球団、永久欠番が1球団となっている。日本人選手が着用しているのは、半分の6球団だ。内野手、外野手の割合も半分となっており、基本的に野手がつける番号といっていいだろう。

読売ジャイアンツの背番号「4」は1947年7月9日に同じく巨人の背番号「14」とともに日本最初の永久欠番となった。この番号を着用していた黒沢俊夫選手はシーズン中に腸チフスを発症し現役のまま急死。黒沢選手は戦時中も4番を打つなど活躍している主力選手でもあった。

シーズン最多本塁打記録保持者・バレンティン選手

外国人選手が背番号「4」を着用することの多い、東京ヤクルトスワローズ。古くはデーブ・ロバーツ選手、チャーリー・マニエル選手らが着用。近年ではジェイミー・デントナ選手が2009年、2010年とこの番号を与えられていた。そのデントナ選手の後に着用しているのがウラディミール・バレンティン選手だ。

2011年に来日し初年度から本塁打王に輝くと翌2012年にも本塁打王を獲得。来日3年目の2013年には日本球界最多となる60本塁打をマーク。2016年までの6年間で185本塁打を放つスラッガーとして活躍中だ。

また、2013年の第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で初めてオランダ代表に選出。2015年のプレミア12、2017年の第4回WBCと続けざまに代表入りを果たしたバレンティン選手の背番号は代表でも「4」だ。第4回WBCでは4番を任され打率.615、4本塁打、12打点の活躍を見せている。

ちなみに、シアトル・マリナーズ、シンシナティ・レッズでメジャー経験はあるが、その際の背番号は「4」ではない。

ヤンキース初期の伝説・ルー・ゲーリッグ選手

メジャーリーグで伝統のあるニューヨーク・ヤンキース史上初めて永久欠番となったのが、ルー・ゲーリッグ選手の背番号「4」だ。1923年にヤンキースでデビューを果たしたゲーリッグ選手は、1925年からレギュラーとして活躍。1927年にはMVP、1934年には三冠王を獲得するなどベーブ・ルース選手とともにチームを支えていた。好成績を残すだけでなく、2130試合連続出場など球史に残る活躍を見せていたことでも有名だ。

メジャーリーグで背番号が取り入れられたのは1929年だったので、ゲーリッグ選手が入団してからしばらくは、背番号という文化はなかった。これはスタジアムに来た観客が、遠くからでも選手を判別できるようにとの配慮から始まったものである。当時は今のように番号を選ぶことはなく、打順の通りに番号がつけられており、ゲーリッグ選手は4番を打っていたことから背番号「4」となったのだ。ゲーリッグ選手の前を打っていたルース選手は「3」であった。

しかし、1939年に筋萎縮性側索硬化症を発症し現役引退を発表。シーズン途中に「ルー・ゲーリッグ感謝デー」を開催しスピーチを行った。その中で述べられた「私はこの世で最も幸せな男です」のセリフは名スピーチのひとつとして残っている。インターネットやテレビのなかった時代ではあったが、ルー・ゲーリッグ選手の自伝映画で世界中に広まったのだ。また、この年史上最年少で野球殿堂入りも果たした。

現役を退いた後に病状は回復することなく、1941年に37歳という若さでこの世を去っている。死因である近年は筋萎縮性側索硬化症はAmyotrophic lateral sclerosisをALSと略されて広まっているが、「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれていた。2017年現在でも不治の病のひとつであり、治療法は確立されていない。

現役中に病死・黒沢俊夫選手

1936年に名古屋金鯱軍(現解散球団)へ入団した黒沢俊夫選手は、チームの合併などを経て1944年にトレードで巨人へ移籍。彼は巨人が初めてトレードで獲得した選手でもあった。タイトルの獲得こそなかったものの、主軸打者として活躍し1944年は打率.348(135打数47安打)、戦後の1946年は打率.308(393打数121安打)の成績を残している。

しかし翌1947年に腸チフスを発症し、シーズン中である6月に33歳という若さで急死した。現役選手のまま病死という事態だったため、巨人は球団葬を行っている。黒沢選手の死去から1カ月と経たないうちに、背番号「4」は巨人の永久欠番へと制定された。同時に、太平洋戦争にて戦死した沢村栄治選手の背番号「14」も永久欠番となっている。

これが、日本における最初の永久欠番でもある。

外国人選手が多くつける中日ドラゴンズ

中日ドラゴンズにおいての背番号「4」は、外国人選手の番号として定着していた時期がある。1969年にスティーブ・フォックス選手が背番号「4」を着用するとジョン・ミラー選手(1970年-1972年)、ボビー・テーラー選手(1973年)が着用。その後もジーン・マーチン選手(1974年-1978年)、ボビー・ジョーンズ選手(1979年、1980年)、レイ・コージ選手(1981年)と1980年代に入っても継続。

その後もケン・モッカ選手(1982年-1985年)、ゲーリー・レーシッチ選手(1986年-1988年)と8人続いていた。

その後、日本人選手が着用するもダネル・コールズ選手(1996年)、レオ・ゴメス選手(1997年-002年)と再び外国人選手の番号となった。アレックス・オチョア選手(2004年-2006年)、ジョー・バレンタイン選手(2007年)に与えられている。2008年からは藤井淳志選手が2017年まで着用。今後、再び外国人選手の番号となる日は来るのか注目が集まる。

おすすめの記事

関連記事

プロ野球 試合経過・結果

セ・リーグ

パ・リーグ

{{league_title}}

  • 本日開催される試合はありません

B1 順位表

東地区
中地区
西地区
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}

プロ野球 OPS順位

セ・リーグ
パ・リーグ
 選手名・所属チームOPS 
{{index + 1}}{{item.raw.Name}}{{item.raw['ShortName-Team']}}{{item.metrics.ops.toFixed(3)}}{{item.metrics.ops.toFixed(3).substring(1)}}
 選手名・所属チームOPS 
{{index + 1}}{{item.raw.Name}}{{item.raw['ShortName-Team']}}{{item.metrics.ops.toFixed(3)}}{{item.metrics.ops.toFixed(3).substring(1)}}

人気記事ランキング

関連記事

SPAIA スポーツコラム ライター募集中!