2024年現役選手の背番号「4」
2024年に背番号「4」を背負う現役選手は以下の通りとなっている。
阪神:熊谷敬宥内野手
広島:不在
DeNA:度会隆輝外野手
巨人:永久欠番(黒沢俊夫)
ヤクルト:丸山和郁外野手
中日:鵜飼航丞外野手
オリックス:森友哉捕手
ロッテ:友杉篤輝内野手
ソフトバンク:不在
楽天:阿部寿樹内野手
西武:山野辺翔内野手
日本ハム:上川畑大悟内野手
不在:2球団
永久欠番:1球団
投手:0球団
捕手:1球団
内野手:5球団
外野手:3球団
日本では「4」は縁起が悪いとして敬遠されることもあるが、2024年で不在となっているのは広島とソフトバンクの2球団のみ。守備位置はセカンドを示す番号であるためか内野手が5球団と多く、基本的に野手がつける番号と言っていいだろう。
オリックスの森友哉が昨年FA移籍した際に西武時代の「10」から「4」に変更するなど、近年は主力選手が着用するケースも増えてきている。昨季ルーキーながら主に遊撃手として64試合に出場したロッテ・友杉篤輝も「10」から「4」に変更し、今季レギュラー完全定着を狙う。
新人では、DeNAのドラフト1位・度会隆輝が「4」を着用。セ・リーグの新人では初となる開幕戦から2試合連続本塁打を放つなど、華々しいデビューを飾った。元ヤクルトの父・博文氏の現役時代と同じ背番号で、「ハマの一番星」を目指す。
巨人の背番号「4」は1947年7月9日に「14」とともに日本最初の永久欠番となっている。この番号を着用していた黒沢俊夫はシーズン中に腸チフスを発症して33歳で急死。黒沢は戦時中も4番を打つなど活躍した主力選手だった。
次章以降では、背番号「4」にまつわる選手や球団の歴史などを紹介していく。
シーズン最多本塁打記録保持者・バレンティン
外国人選手が背番号4を着用することの多いヤクルト。古くはデーブ・ロバーツ、チャーリー・マニエルらが背負い、近年ではジェイミー・デントナが2009年、2010年と「4」を背負った。その後に付けたのがウラディミール・バレンティンだ。
2011年に来日し、1年目から本塁打王に輝くと、翌2012年にも本塁打王を獲得。3年目の2013年には日本球界最多となる60本塁打をマークした。2020年からソフトバンクに移籍し、NPB通算11年間で301本塁打を放った。
2013年の第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で初めてオランダ代表に選出され、2017年の第4回WBC、2023年の第5回WBCでもオランダ代表の「4」を背負った。第4回WBCでは打率.615、4本塁打、12打点の活躍を見せ、第5回で日本の吉田正尚が更新(13打点)するまでWBC最多打点記録だった。
ちなみにマリナーズとレッズでメジャー経験はあるが、その際の背番号は「4」ではない。
ヤンキース初期の伝説・ルー・ゲーリッグ
メジャーリーグで伝統のあるヤンキース史上初めて永久欠番となったのが、ルー・ゲーリッグの背番号「4」だ。1923年にヤンキースでデビューを果たしたゲーリッグは、1925年からレギュラーとして活躍。1927年にはMVP、1934年には三冠王に輝くなどベーブ・ルースとともにチームを支え、2130試合連続出場も記録した。
メジャーリーグで背番号が取り入れられたのは1929年だったため、ゲーリッグが入団してからしばらくは背番号がなかった。スタジアムに来た観客が、遠くからでも選手を判別できるようにとの配慮から始まったものだった。当時は今のように番号を選ぶことはなく、打順の通りに番号がつけられており、ゲーリッグは4番を打っていたことから背番号「4」となった。ゲーリッグの前を打っていたルースは「3」だった。
しかし、1939年に筋萎縮性側索硬化症を発症し、現役引退を発表。シーズン途中に「ルー・ゲーリッグ感謝デー」を開催してスピーチした。その中で述べられた「私はこの世で最も幸せな男です」のセリフは自伝映画で世界中に広まり、名スピーチのひとつとして語り継がれている。この年、史上最年少で野球殿堂入りも果たした。
現役を退いた後も病状は回復することなく、1941年に37歳という若さでこの世を去っている。死因である筋萎縮性側索硬化症はALS(Amyotrophic lateral sclerosis)として広まっているが、「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれていた。現在も治療法は確立されていない。
シーズン中に急死した黒沢俊夫
1936年に名古屋金鯱軍に入団した黒沢俊夫は、チームの合併などを経て1944年にトレードで巨人へ移籍。巨人が初めてトレードで獲得した選手でもあった。
タイトル獲得こそなかったものの主軸として活躍し、1944年は打率.348(135打数47安打)、戦後の1946年は打率.308(393打数121安打)の成績を残している。
しかし、翌1947年に腸チフスを発症し、シーズン中の6月に33歳という若さで急死。現役のまま病死したため、巨人は球団葬を行ったという。
背番号「4」は巨人の永久欠番に制定され、同時に太平洋戦争にて戦死した沢村栄治の背番号「14」も永久欠番となっている。これが日本における最初の永久欠番でもある。
外国人選手が多くつける中日ドラゴンズ
中日の背番号「4」は外国人選手の番号として定着していた時期がある。
1969年にスティーブ・フォックスが背番号「4」を着用すると、ジョン・ミラー(1970~72年)、ボビー・テーラー(1973年)が着用。その後もジーン・マーチン(1974~78年)、ボビー・ジョーンズ(1979~80年)、レイ・コージ(1981年)、ケン・モッカ(1982~85年)、ゲーリー・レーシッチ(1986~88年)と8人続いた。
一時期、日本人選手が着用したが、ダネル・コールズ(1996年)から再び外国人選手に戻り、レオ・ゴメス(1997~2002年)、アレックス・オチョア(2004~06年)、ジョー・バレンタイン(2007年)が付けていた。現在は2022年から鵜飼航丞が背負っている。
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