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プロ野球で背番号4を背負った名選手たち

2017 9/13 14:03cut
バレンティン,ⒸSPAIA
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ⒸSPAIA

2019年現役選手の背番号「4」

現役選手ではヤクルトのバレンティン選手が背番号「4」で活躍しているが、他球団の選手はどうだろうか。

日本ハム:谷口雄也選手(外野手)
ソフトバンク:川島慶三選手(内野手)
ロッテ:藤岡裕大選手(内野手)
西武:山野辺翔選手(内野手)
楽天:―
オリックス:福田周平選手(内野手)
広島:小窪哲也選手(内野手)
巨人:永久欠番(黒沢俊夫選手)
DeNA:伊藤裕季也選手(内野手)
阪神:熊谷敬宥選手(内野手)
ヤクルト:バレンティン選手(外野手)
中日:藤井淳志選手(外野手)

不在:1球団
永久欠番:1球団
投手:0球団
捕手:0球団
内野手:7球団
外野手:3球団

日本では「4」は縁起が悪いとして敬遠されることもあるが、不在、外国人選手とも1球団のみにとどまっている。セカンドの番号であるためか内野手が7球団、外野手が3球団となっており、基本的に野手がつける番号と言っていいだろう。

巨人の背番号「4」は1947年7月9日に、「14」とともに日本最初の永久欠番となった。この番号を着用していた黒沢俊夫選手はシーズン中に腸チフスを発症し現役のまま急死。黒沢選手は戦時中も4番を打つなど活躍した主力選手だった。

シーズン最多本塁打記録保持者・バレンティン選手

外国人選手が背番号「4」を着用することの多いヤクルト。古くはデーブ・ロバーツ選手、チャーリー・マニエル選手らが背負い、近年ではジェイミー・デントナ選手が2009年、2010年と「4」を与えられた。そのデントナ選手の後に付けているのがウラディミール・バレンティン選手だ。

2011年に来日し、1年目から本塁打王に輝くと、翌2012年にも本塁打王を獲得。3年目の2013年には日本球界最多となる60本塁打をマークした。2018年までの8年間で255本塁打を放つスラッガーとして活躍中だ。

2013年の第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では初めてオランダ代表に選出。2015年のプレミア12、2017年の第4回WBCでも代表入りしたバレンティン選手は「4」を背負った。第4回WBCでは4番を任され打率.615、4本塁打、12打点の活躍を見せている。

ちなみに、シアトル・マリナーズ、シンシナティ・レッズでメジャー経験はあるが、その際の背番号は「4」ではない。

ヤンキース初期の伝説・ルー・ゲーリッグ選手

メジャーリーグで伝統のあるニューヨーク・ヤンキース史上初めて永久欠番となったのが、ルー・ゲーリッグ選手の背番号「4」だ。1923年にヤンキースでデビューを果たしたゲーリッグ選手は、1925年からレギュラーとして活躍。1927年にはMVP、1934年には三冠王を獲得するなどベーブ・ルース選手とともにチームを支え、2130試合連続出場を果たすなど球史に残る活躍を見せた。

メジャーリーグで背番号が取り入れられたのは1929年だったので、ゲーリッグ選手が入団してからしばらくは、背番号という文化はなかった。これはスタジアムに来た観客が、遠くからでも選手を判別できるようにとの配慮から始まったものである。当時は今のように番号を選ぶことはなく、打順の通りに番号がつけられており、ゲーリッグ選手は4番を打っていたことから背番号「4」となったのだ。ゲーリッグ選手の前を打っていたルース選手は「3」だった。

しかし、1939年に筋萎縮性側索硬化症を発症し現役引退を発表。シーズン途中に「ルー・ゲーリッグ感謝デー」を開催しスピーチを行った。その中で述べられた「私はこの世で最も幸せな男です」のセリフは名スピーチのひとつとして残っている。自伝映画で世界中に広まったのだ。また、この年史上最年少で野球殿堂入りも果たした。

現役を退いた後も病状は回復することなく、1941年に37歳という若さでこの世を去っている。死因である筋萎縮性側索硬化症はALS(Amyotrophic lateral sclerosis)として広まっているが、「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれていた。現在も治療法は確立されていない。

現役中に病死・黒沢俊夫選手

1936年に名古屋金鯱軍へ入団した黒沢俊夫選手は、チームの合併などを経て1944年にトレードで巨人へ移籍。彼は巨人が初めてトレードで獲得した選手でもあった。タイトル獲得こそなかったものの、主軸打者として活躍し1944年は打率.348(135打数47安打)、戦後の1946年は打率.308(393打数121安打)の成績を残している。

しかし翌1947年に腸チフスを発症し、シーズン中の6月に33歳という若さで急死した。現役のまま病死したため、巨人は球団葬を行っている。黒沢選手の死去から1カ月と経たないうちに、背番号「4」は巨人の永久欠番に制定された。同時に、太平洋戦争にて戦死した沢村栄治選手の背番号「14」も永久欠番となっている。これが、日本における最初の永久欠番でもある。

外国人選手が多くつける中日ドラゴンズ

中日の背番号「4」は外国人選手の番号として定着していた時期がある。1969年にスティーブ・フォックス選手が背番号「4」を着用すると、ジョン・ミラー選手(1970年-1972年)、ボビー・テーラー選手(1973年)が着用。その後もジーン・マーチン選手(1974年-1978年)、ボビー・ジョーンズ選手(1979年、1980年)、レイ・コージ選手(1981年)、ケン・モッカ選手(1982年-1985年)、ゲーリー・レーシッチ選手(1986年-1988年)と8人続いていた。

一時期、日本人選手が着用したが、ダネル・コールズ選手(1996年)から再び外国人選手に戻り、レオ・ゴメス選手(1997年-2002年)、アレックス・オチョア選手(2004年-2006年)、ジョー・バレンタイン選手(2007年)が付けている。2008年からは藤井淳志選手が着用している。

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