2024年現役選手の背番号「6」
史上初となる3度の三冠王に輝いた落合博満や歴代1位の1492試合連続フルイニング出場を記録した金本知憲など、強打者が背負ってきた背番号「6」。また、宮本慎也や井端弘和など巧打かつ堅守の名遊撃手が背負ってきたイメージも強い。
2024年シーズンはどんな選手が着用しているのだろうか。各球団の背番号「6」は下記のとおり。
阪神:不在
広島:不在
DeNA:森敬斗内野手
巨人:坂本勇人内野手
ヤクルト:不在
中日:中田翔内野手
オリックス:宗佑磨内野手
ロッテ:不在
ソフトバンク:今宮健太内野手
楽天:不在
西武:源田壮亮内野手
日本ハム:アンドリュー・スティーブンソン外野手
監督:0球団
不在:5球団
永久欠番:0球団
投手:0球団
捕手:0球団
内野手:6球団
外野手:1球団
12球団中6球団で内野手が背番号「6」を着用。押しも押されもせぬスタープレーヤー坂本勇人をはじめ、6年連続でパ・リーグのゴールデングラブを受賞している源田壮亮、2013年から5年連続ゴールデングラブに輝いた今宮健太ら、現代の名ショートたちが名を連ねている。
中日では、巨人から加入した中田翔が今季から「6」を背負う。落合博満や井端弘和、平田良介などが背負ってきた偉大な番号で再起を図る。また、日本ハムでは新助っ人のスティーブンソンが外野手として12球団で唯一着用している。
ヤクルトは元山飛優が西武へトレード移籍、楽天は西川遥輝が退団したため、今季は「6」が空き番に。ロッテでは井口資仁監督が現役時代の2009年から背負っていたが、2022年限りで退任。阪神も2018年シーズン限りで「6」を着用していた金本知憲監督が退任後、空き番となっている。
次章以降では、背番号「6」を背負った歴代のスタープレーヤーを紹介していく。
日本唯一3度の三冠王・落合博満
日本プロ野球で唯一、3度の三冠王に輝いた落合博満は、ロッテ、中日、巨人、日本ハムと4球団を渡り歩き、通算2371安打、510本塁打を放っている。
落合は1983年のロッテ入団から中日最終年(1993年)まで背番号「6」を着用。巨人に移籍した1994年は、篠塚和典が「6」をつけていたため「60」を背負った。しかし、その年限りで篠塚選手が引退したため、1995年、1996年と背番号「6」で過ごした。1997年に日本ハムへ移籍した際には背番号「3」を付けた。生え抜きの田中幸雄が「6」を背負っていたため、空き番を選んだのだ。
また、現役引退後に中日の監督を務めた際は、「6」を並べた「66」を8年間にわたり着用。落合以降の中日の背番号「6」は、金村義明、久慈照嘉、井端弘和を経て、現在は平田良介が使用している。
当時、背番号「40」だった平田は、2013年オフに若い番号への変更を打診された際に、複数の空き番の中から「6」を選択。当時の落合GMから「誰がつけていた番号か知っているか?」と聞かれたが、平田は分からなかったというエピソードがある。
歴代屈指の強打の遊撃手・坂本勇人
巨人の遊撃手として長年チームを引っ張ってきた坂本勇人も背番号「6」を背負っている。
1988年生まれの坂本は、田中将大(楽天)、前田健太(ツインズ)、柳田悠岐選手(ソフトバンク)らと同い年。高校時代から注目を集めており、2006年高校生ドラフトで巨人から1位指名され入団した。入団当初の背番号は「61」だった。
入団2年目となる2008年に開幕スタメンを勝ち取ると、全144試合に出場。この年から不動の遊撃手となり、同時に背番号も「61」から「6」へ変更した。背番号「6」として迎えた最初の2009年シーズンは、打率.306(581打数178安打)と初の打率3割をマークし、翌2010年には31本塁打と初の30本塁打を記録している。さらに2012年に最多安打、2016年には首位打者に輝き、球界を代表する遊撃手へと成長した。
2020年の11月8日には史上53人目の2000本安打を達成。2024年からはサードへ本格転向しているが、今や球界を代表する選手が付ける背番号となった巨人の「6」。今後継承するのはどんな選手となるのか、今から楽しみだ。
監督でも「6」金本知憲
2016年から3年間、阪神の指揮を執った金本知憲監督の背番号は、現役時代と同じく「6」だった。
1991年ドラフト4位で東北福祉大学から広島に入団した際は背番号「10」だった。入団3年目から頭角を現すと後半戦からレギュラーをつかみ、90試合出場で17本塁打をマーク。1995年には104試合で24本塁打を放った。2000年には打率.315(496打数156安打)、30本塁打、30盗塁とトリプルスリーも達成。
その後もタイトルこそ獲得できなかったものの、2002年シーズンまで広島の中心選手として活躍。オフにFA宣言し阪神へ移籍した。その時に与えられたのが背番号「6」だった。広島時代に背負った背番号「10」が、阪神では永久欠番だったことも理由のひとつである。
移籍初年度となる2003年にチームはリーグ優勝し、翌2004年には初タイトルとなる打点王(113打点)を獲得。広い甲子園球場を苦にすることはなかった。1492試合連続フルイニング出場を記録するなどチームを牽引し、2012年に惜しまれながら引退した。
阪神監督としては2016年から4位、2位、6位の成績。2018年オフに最下位の責任を取って辞任した。
「The Man」ことスタン・ミュージアル
1940年代から1960年代前半にかけてセントルイス・カージナルス一筋で戦ったスタン・ミュージアル。1941年にメジャーデビューを果たすと、3年目となる1943年に打率.357(617打数220安打)で初タイトルとなる首位打者に輝いた。その後、1963年の現役引退までに首位打者7回、打点王2回を獲得し、MVPは3回受賞している偉大な選手だ。
入団当初から背番号「6」を背負い続け、1963年に現役を引退すると同時に、カージナルスの永久欠番となった。カージナルスでは初の永久欠番であり、1969年にアメリカ野球殿堂入りを果たしている。
ミュージアルは成績だけではなく、人格的も優れており「男の中の男」という意味を込めて「The Man」と呼ばれた。
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