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阪神・近本光司、DeNA松尾汐恩、巨人・門脇誠ら多彩な強打者揃う プロ野球における背番号5の選手たち

2024 4/7 06:00SPAIA編集部
巨人の門脇誠、阪神の近本光司、DeNAの松尾汐恩,ⒸSPAIA
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2024年現役選手の背番号「5」

強打者のイメージが強い背番号「5」。2024年シーズン各球団の背番号「5」は下記の通りとなっている。

阪神:近本光司外野手
広島:不在
DeNA:松尾汐恩捕手
巨人:門脇誠内野手
ヤクルト:川端慎吾内野手
中日:村松開人内野手

オリックス:西野真弘内野手
ロッテ:安田尚憲内野手
ソフトバンク:不在
楽天:茂木栄五郎内野手
西武:外崎修汰内野手
日本ハム:野村佑希内野手

不在:2球団
永久欠番:0球団
投手:0球団
捕手:1球団
内野手:8球団
外野手:1球団

12球団中8球団で内野手が着用している。打撃職人のヤクルト・川端慎吾に、攻守にわたってチームをけん引する西武・外崎修汰、若手スラッガーのロッテ・安田尚憲ら多士済々の中、今季は巨人の門脇誠が「35」から変更。昨季終盤に坂本勇人に代わって正遊撃手の座についた23歳は、新たな中心選手としての期待も背負う。

捕手ではDeNAの2022年ドラフト1位・松尾汐恩が着用。高校時代は強打のスラッガーとして鳴らした19歳はプロ2打席目で初ヒットを放つなど、早くも頭角を現している。外野手では昨季日本シリーズMVPに輝いた阪神・近本光司が「5」を背負う。球団史上初の連覇へ今季も絶対的リードオフマンとしてチームを支える。

西川龍馬がオリックスへFA移籍した広島は、ソフトバンクとともに空き番となっている。

次章からは、背番号「5」を着用していたプロ野球の歴代名選手たち、そしてメジャーの名選手たちを紹介する。

「記録より記憶に残る男」新庄剛志

2000年オフに阪神からメジャーリーグへ挑戦した新庄剛志は入団時は背番号「63」だったが、4年目の1993年から「5」に変更した。前年に大ブレイクし、この年は初めて100試合以上の出場を果たしてチームの中心選手へと成長した。

「記録より記憶に残る男」として知られている新庄は、1995年オフに突如「センスがない」と発言して引退を宣言。周囲の説得もあり撤回したが、自由奔放な言動で注目を浴びた。また、1999年には敬遠球をサヨナラ安打するなどエピソードには事欠かない選手だった。

2000年オフにFA宣言し、ニューヨーク・メッツへ移籍。メッツとサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーした2003年までの3年間、一貫して背番号「5」をつけている。

2004年に日本ハムへ移籍してからは背番号「1」。「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」といった印象的なセリフを残し、3年間プレーした後、最終年のシーズン早々にまたもや突然の引退宣言でファンを驚かせた。そして、宣言通りに日本一となり有終の美を飾っている。

2022年に日本ハムの新監督に就任。背番号「1」をつけてシーズンに臨んだが、初年度は最下位に終わった。2年目以降は登録名を「BIGBOSS」から本名の「新庄剛志」に変更。指揮官となった今も個性的なパフォーマンスは健在だ。

56試合連続安打を記録したジョー・ディマジオ

ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番である背番号「5」を背負っていたのがジョー・ディマジオだった。ディマジオが1941年に記録した56試合連続安打は現在も破られていない。

1936年にヤンキースへ入団し、背番号「9」でメジャーリーガーとして歩み始めた。翌1937年に背番号を「5」に変更すると、打率.346(621打数215安打)、46本塁打、167打点の成績を残しチームの柱へと成長する。ベーブ・ルースが引退し、ルー・ゲーリッグに衰えが見られる頃に開花したのだ。

13年間の現役生活で361本塁打を放つほどのパワーの持ち主でありながら三振は少なかった。ルースが5度のリーグ最多三振を記録しているが、ディマジオは一度もない。56試合連続安打を記録した1941年は、622打席で13三振のみとミート率の高さがうかがえる。

首位打者2回、本塁打王2回、打点王2回のタイトルを獲得し、MVPも3度受賞。1951年の現役引退と同時に背番号「5」はヤンキースの永久欠番に制定された。

また、マリリン・モンローと結婚生活を送っていたことも有名で、1年経たずに離婚した後も「マリリンほどの女性はいない」という発言をしている。

史上最強捕手とも称されるジョニー・ベンチ

メジャーリーグ史上最強の捕手と称されることもあるジョニー・ベンチ。シンシナティ・レッズで1967年にメジャーデビューし、その後1983年まで中心選手としてプレーした。2年目となる1968年に新人王とゴールドグラブ賞を受賞し、1970年には本塁打王、打点王を獲得、MVPにも輝いている。

1970年代のレッズは、その強力打線から「ビッグレッドマシン」と呼ばれ、1975年、1976年とワールドシリーズ連覇を成し遂げた。チームで攻守にわたり存在感を発揮していたのがベンチだった。

晩年は一塁手、三塁手など捕手以外のポジションにも多くついたベンチだが、2158試合中1742試合は捕手としての出場。通算本塁打327本は捕手として当時のメジャーリーグ記録でもあった(現在はマイク・ピアッツァ選手の396本塁打)。

ベンチの入団から引退に至るまでの背番号は、一貫して「5」だった。移籍が多いメジャーリーグでは珍しく生涯一球団でプレーし、背番号の変更もなかった。現役引退と同時にレッズの永久欠番に制定され、野球殿堂入りも果たしている。

殿堂入り確実なアルバート・プホルス

イチローがシアトル・マリナーズでデビューした2001年、時を同じくしてセントルイス・カージナルスでデビューしたのがアルバート・プホルスだ。この年、161試合に出場し打率.329(590打数194安打)、37本塁打、130打点をマークし、ナショナルリーグ新人王を受賞。以降、10年連続で3割、30本塁打、100打点を記録しメジャーリーグを代表する打者となった。

プホルスはデビュー当時から背番号「5」を着用しており、2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でドミニカ代表としてプレーした際も「5」を背負った。

2012年にロサンゼルス・エンゼルスへ移籍した後も背番号「5」でプレー。デビュー以降同じ番号でプレーしていたが、2021年シーズン中にロサンゼルス・ドジャースに移籍後は「55」を着用した。2022年に古巣カージナルスへ11年ぶりに復帰。同年限りでの現役引退を表明していたが、打率.270、24本塁打、68打点、OPS.895と、ラストシーズンとは思えない好成績を残した。

通算では、メジャー歴代5位となる3080試合に出場し、3384安打(同9位)、703本塁打(同4位)、2218打点(同2位)など輝かしい成績を残した。イチローらとともに殿堂入りが確実視されている。

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