オリックスが1996年以来26年ぶりの日本一
2022年の日本シリーズはオリックスが昨年敗れたヤクルトにリベンジを果たし、1996年以来26年ぶり5度目の日本一となった。実力が拮抗した両チームの戦いは見応え十分で、球史に残る7試合だった。
だが、「26年ぶり」という言葉に、喉の奥に棘が刺さったような違和感を覚えるオールドファンは少なくないはずだ。現在のオリックスは2004年の球界再編騒動により、オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズが合併してできた球団。近鉄はそれまで4度パ・リーグを制しながら日本一を果たせなかったチームとしてファンの記憶に刻まれているのだ。
つまり、バファローズとしては初の日本一と言える。こう書くと、いまだにわだかまりを残す一部の旧近鉄ファンや旧阪急ファンの反感を買いそうだが、個人的には過去の涙や悲痛な思いは水に流し、新たな歴史の第一歩として前向きに捉えたい。
4度のリーグ優勝も日本シリーズで涙を呑んだ近鉄
近鉄球団が1949年に誕生した当時は「近鉄パールス」だった。沿線の三重県伊勢志摩地方で真珠の養殖が盛んだったことにちなんで命名され、現在も近鉄本社のお膝元、大阪・天王寺には「パールズ」という喫茶店が営業している。
パールス時代は1958年まで続き、翌1959年から「猛牛」と呼ばれた千葉茂監督を招聘したことから「近鉄バファロー」に改名。1962年から複数形の「バファローズ」になった。
この頃は万年Bクラスで、お荷物球団扱いされていたが、1974年に西本幸雄監督が就任してから戦力を強化。球団創設30年目の1979年に悲願の初優勝を果たした。この年、広島との日本シリーズ第7戦で起きた名シーンが、ノンフィクション作家・山際淳司によって描かれた「江夏の21球」だ。パ・リーグ王者は名脇役へと追いやられた。
翌1980年も近鉄はリーグ連覇したものの、またしても広島に日本シリーズ3勝4敗で敗退。日本一の頂に届きそうで届かず、再び涙を呑んだ。
3回目の優勝は1989年。名将・仰木彬に導かれ、シーズン最終戦で散った前年の「10・19」の悔しさを晴らし、ラルフ・ブライアントの4打数連続本塁打で西武を粉砕した。巨人との日本シリーズも3連勝。「今度こそ」の気運は高まったが、加藤哲郎の「巨人はロッテより弱い」発言をきっかけに流れが変わり、まさかの4連敗を喫した。
近鉄として最後の優勝が2001年だ。梨田昌孝監督の下、中村紀洋、タフィ・ローズを擁する「いてまえ打線」が大爆発。最後は北川博敏が日本プロ野球史上初の「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打」を放ち、頂点に立った。しかし、日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗退。勝利の女神はまたもそっぽを向いた。
「最後の近鉄戦士」坂口智隆も引退
2004年の球団合併によって、近鉄バファローズは消滅。合併と言っても対等ではなく吸収合併だったため、チームカラーは近鉄の赤から、オリックスの青に変更された。それでもオリックスが「バファローズ」を名乗り続けたのは、神戸より大きい大阪のマーケットをフランチャイズにする以上、近鉄ファンを失いたくなかった側面が大きい。
合併反対の猛烈な署名活動や球界初のストライキ突入などもむなしく、球団合併は遂行され、両軍のファンは深く傷ついた。親会社の経営状況悪化による事情に理解を示すファンは少なかった。
その後、オリックスは低迷し、近鉄のユニフォームを着た選手が年々減っていった。「最後の近鉄戦士」と呼ばれた坂口智隆も今季でついに引退。2002年ドラフト1位で近鉄に入団し、オリックス、ヤクルトで通算1526安打をマークしたヒットメーカーも38歳となり、今季は24試合に出場したのみだった。ヤクルトが出場した今年の日本シリーズにその姿はなかった。
また、近鉄最後の球団代表、足高圭亮氏が7月に死去。2004年に球団合併が発覚してからも常に現場に寄り添い続けた情熱のフロントマン。バファローズを愛し、大阪を愛した足高氏はまだ69歳だった。
さらに近鉄でローズらの通訳を務め、球団合併後はオリックスで外国人のコメントを伝え続けた藤田義隆通訳も定年のため今年で引退。近鉄の「残り香」が球界の中で消えつつあったのだ。
そんな中で達成された日本一。NHK朝の連続テレビ小説「舞いあがれ!」で出演者が近鉄バファローズのユニホームを着用していたため、最近になって近鉄グッズが売れているというニュースが流れたのは偶然だろうか。
人には歴史があり、球団にも歴史がある。清濁併せ吞み、未来に向けて新たな一歩を踏み出したオリックス・バファローズ。輝かしい歴史が今、スタートを切った。
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