複数球団渡り歩くも高勝率を残した投手・工藤公康
工藤公康は、2004年8月17日のヤクルト戦で、史上23人目の通算200勝を記録した。21世紀以降では初めての達成で、そのあとには2008年8月4日に記録した山本昌しかいない。
工藤と山本昌はともに左腕投手で、40歳を超えての200勝、そして実働期間はともにNPB最多の29年と、共通点が多い。しかし、データから見る工藤公康は、はっきりした特徴がある投手でもある。
1936年に始まった日本プロ野球には様々な節目があるが、1965年に始まったドラフト制度は、非常に大きな節目だったと言える。この制度が始まって各球団の戦力均衡が進み、極端に大負けするチームも大勝ちするチームも少なくなった。またそれに伴って投手の勝率も低くなっていった。
NPBで150勝以上した投手は49人いる。最も勝率が高いのは藤本英雄(巨人、中日)の.697(200勝87敗)だが、ドラフト制度の導入以降に限定すれば、勝率5傑は下表のようになる。
勝率6割以上はこの5人だけ。1位は王貞治、藤田元司、第二次長嶋政権時代に最多勝を5回獲得した斎藤雅樹。2位は西本幸雄、上田利治監督時代の阪急のエース山田久志となった。
工藤公康は3位だが、この5傑の中では唯一、複数の球団を渡り歩きながら高い勝率を維持した。勝率が高い投手は、勝率の良いチームにずっと在籍していることが多いが、工藤はその点で異例の投手と言えよう。
ちなみに山本昌は勝率.570(219勝165敗)で8位だ。
球団勝率を上回り続けた優勝請負人
前述のとおり工藤公康は5球団を渡り歩いた。この5球団での工藤の勝敗と、所属した球団の球団勝率、順位を見ていこう。
1981年に名古屋電気高からドラフト6位で入団した工藤は、中継ぎ投手として1年目から27試合に登板。この年、西武ライオンズは初優勝を飾った。以後、西武は13年間で11回のリーグ優勝を記録したが、工藤は2年後輩の渡辺久信とともにWエースとして活躍した。
1994年オフにFA権を行使してダイエーに移籍すると、1999年には最優秀防御率のタイトルを獲得しダイエーの初優勝に貢献、MVPに輝く。翌2000年は2度目のFA権を行使して巨人に移籍。巨人でも2回の優勝に貢献している。2007年には門倉健のFA移籍に伴う人的補償として横浜に移籍。以後は優勝できなかったが、工藤は移籍した3球団で優勝に貢献したことから「優勝請負人」の異名をとった。
上の表を見ていくと、それだけではなく、最終年の西武復帰を除いて、すべてのチームで、この期間の所属球団の勝率よりも工藤の勝率の方が明らかに高いことが分かる。工藤公康は強いチームで打線や救援投手の援護で高い勝率を維持したのではなく、自らの能力で白星を稼いでチームに貢献していたと言えよう。
監督としても6割近い勝率マーク
2010年、工藤公康は29年に及ぶ現役生活に別れを告げた。以後は解説者として活動していたが、2014年には筑波大学大学院に合格し、人間総合科学研究科で川村卓准教授の元、コーチングを学んだ。そして翌年、福岡ソフトバンクホークスの監督に就任した。
コーチを経ずにいきなり監督になった工藤だが、1年目から優勝するなど目覚ましい実績を挙げた。NPBで500勝以上を記録した監督は31人いるが、勝率10傑は以下の通りとなる。
500勝以上の監督の中では、工藤公康はホークスのはるかな先輩監督にあたる鶴岡一人に次いで史上2位、6割近い勝率を残した。7年間でリーグ優勝は3回だが、2位が3回、日本シリーズには5回出場してすべて優勝。クライマックスシリーズという制度を利用した一面はあるが、圧倒的な実績を残した。
工藤公康は監督在任中もオフには筑波大学大学院に通い論文を書き、2020年3月には修士の学位を取得。監督退任後は同大学院の博士課程に進むことが発表された。工藤公康の勧めもあって筑波大学大学院に進んだプロ野球人には、吉井理人、仁志敏久、大島公一、阿井英二郎などがいる。
筆者は吉井理人から「筑波大で野球以外の様々な分野のアスリートから学んだことで視界が広がった。これまでは自分の経験だけで指導していたが、大学院で学んだことで指導者として自信が持てた」と聞いた。
来年60歳になるが、工藤公康は、博士号を取得し研究者となって、今後は「プロ野球指導者を育成する指導者」になるのではないだろうか。
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