アジアを代表するサッカークラブ、浦和レッズ
ホームスタジアムには常に3万人を越える観客を動員し、毎年の様に上位争いを繰り広げる日本を代表するクラブの1つである浦和レッズ。
リーグ優勝こそ2006年の1度だけだが、YBCルヴァンカップでは2004年、2016年の2度優勝。天皇杯でも2005年、2006年に連覇を達成している。2007年には現行のフォーマットとなって以来、日本のクラブとしては初めてのAFCチャンピオンズリーグを制覇。今やアジアを代表するサッカークラブの1つと言っても良いだろう。
そんな浦和レッズだが、かつてはJリーグ開幕初年度順位は10クラブ中で最下位の10位という結果で、決して今のような強豪チームではなかった。
クラブが強豪クラブへと成長した歴史とともに、そのチームを支えた背番号9番を振り返ってみよう。
浦和レッズ誕生までの流れ
浦和レッズは、Jリーグ(1993年開幕)に参加する10クラブの1つとして1991年に誕生した。日本サッカーリーグ時代から強豪チームであった、創部1950年の三菱重工業サッカー部(後に三菱自動車工業へ移管され三菱自動車工業サッカー部となる)をルーツにしている。
今では浦和レッズと密接に結びついているホームタウンだが、浦和レッズとなるまでにホームゲームを行っていたのは、旧国立競技場や西が丘サッカー場などの東京都内だった。そもそも三菱重工業や三菱自動車工業は東京丸の内に本社があるため、現在のホームタウンである”さいたま市(当時の浦和市)”とは特に関係が無かったのだ。
浦和レッズが発足するきっかけは、浦和高校や浦和南高校など高校サッカーの名門校が沢山ありサッカーが盛んだった当時の浦和市が、Jリーグクラブを誕生させようと積極的に働きかけていたからだ。
しかし当時、埼玉県をホームとし全国リーグを戦っていた日本サッカーリーグ1部所属で埼玉県狭山市に別チームを持っていた本田技研や、2部に所属していたNTT関東サッカー部(後の大宮アルディージャ)の2クラブは、Jリーグ不参加を決定した。そのため浦和市は移転可能なクラブを探しており、そこで出会ったのが三菱自動車工業サッカー部だったのだ。
Jリーグは、それまでホームスタジアムとして使用していた旧国立競技場を、特定チームのホームスタジアムとは認めない方針を発表していたため、三菱自動車工業サッカー部がJリーグに参加するためには、ホームスタジアムの移転が必要になったのだ。
「Jリーグのお荷物」とまでいわれた浦和レッズ
こうして1993年に開幕したJリーグに、オリジナル10のうちの1チームつとして加盟した浦和レッズ。
しかし、開幕初年度の1993年は10クラブ中10位、2クラブ増え12クラブとなった2年目の1994年には12位と、2年連続の最下位となってしまい、当時Jリーグチェアマンだった川淵三郎氏に
「Jリーグのお荷物」
出典:
日本サッカー協会
とまで酷評されるほど勝てなかった。
実は、Jリーグ開幕直前の”三菱自動車工業サッカー部”が、既に強豪チームではなくなっていたからなのだ。
Jリーグ開幕直前の1980年代中盤以降、日本サッカー界は国内初のプロサッカー選手となった日産自動車の木村和司氏など、プロ選手化への大きな波が起こっていた。
そんな中、三菱自動車工業は選手のプロ化に消極的な姿勢をとっていたため、その波に乗り遅れる形になっていた。そのためチームは、原博実氏などの日本代表選手が所属していながらも低迷し、1989年には日本サッカーリーグ2部に降格していたのだ。
この状況に危機感を抱いた三菱自動車工業は、一気に選手のプロ化へと舵を取ることにし、これが本拠地を移転しての浦和レッズ誕生につながったのだが、だからといってチームが急に強くなる訳でもなかった。
もともとサッカーの盛んな地域であった浦和市だったので、当時からサポーターはかなり多かったが、当初から浦和レッズのクラブ成績は常に下位だった。
ミスターレッズ、福田正博氏
Jリーグ開幕前後は成績的に厳しい状況だった浦和レッズ。しかし、Jリーグ開幕直前に日本サッカーリーグ2部で戦うこととなった1989年、中央大学から彗星のごとく登場したのが福田正博氏だ。
彼は大学3年時にはリーグのアシスト王となっていたが、チームとして結果を残していた訳でもなく、注目を集める新人選手ではなかった。1989年は2部降格だけでなく、当時のチームエースだった原氏が病気で離脱するという厳しいシーズンにもかかわらず、大卒新人選手が26試合36得点という爆発的な得点力をみせつけ、チームの大穴を埋めてしまったのだ。
福田氏の活躍によりクラブは1年で1部に復帰し、Jリーグ加入に向けて動き出す中、福田氏は日本代表にも定着した。一方でかつてのエースだった原氏は、コーチ就任のため、Jリーグ開幕前年の1992年に現役引退したのだ。
つまりJリーグ開幕当初の浦和レッズと浦和レッズサポーターにとって、当時クラブ唯一の日本代表選手であった福田氏は、低迷を続けるチームにとって大きな希望だったのだ。そんな福田氏が背負った背番号が9番だった。
しかしチームが低迷したJリーグ開幕からの2シーズンは、福田氏自身も怪我の影響もあり本領を発揮する事は少なかった。
一気に輝きを見せるようになったのはJリーグ3年目の1995年、開幕から得点を重ねると、過去2シーズンの低迷がウソだったかの様に浦和レッズは3位へと大躍進した。福田氏自身も日本人初のJリーグ得点王となったのだ。
その後のキャリアで怪我で苦しむこととなるが、「Jリーグのお荷物」とまで呼ばれたチームを引っ張り、躍進につなげたのは背番号9番をつけたエース福田氏だ。いつしかミスターレッズと呼ばれるようになった。
引き継がれた9番は武藤雄樹選手の下へ
福田正博氏が背負った背番号9番は、キレのあるドリブルでチームを牽引した永井雄一郎選手が受け継いだ。
永井選手は、プレースタイルの違いから福田氏ほどゴールを重ねるプレーヤーでは無かったが、印象的なゴールが多く、2代目ミスターレッズとしてサポーターからも愛される存在だった。
2007年に優勝したAFCチャンピオンズリーグでは大会MVPを受賞し、Jリーグのチームとして初めて出場したFIFAクラブワールドカップでもゴールを決め、大会史上初の日本人得点者にもなっている。
永井選手退団後は、ふさわしい選手がいないということで2年間空き番となるが、2011年は新潟から加入したエジミウソン選手が背負う事に。そしてさらに2年間の空白があり2014年は原口元気選手が、また1年間の空白期間を経て2016年から2017年現在は武藤雄樹選手の下へ。
永井選手以降のエジミウソン選手、原口選手は海外移籍という形でどうしても固定することができなかった背番号9番だが、武藤選手となりようやく2シーズン目を迎えている。
武藤選手の特徴は、ベガルタ仙台から加入初年度にチーム内得点王となった得点力はもちろんだが、なんといっても献身的なプレーを行える選手ということだろう。
歴代の9番とは少し異なるプレースタイルを持つ選手だが、その献身的なプレーはチームを支えるにふさわしい存在。武藤選手のプレーが新しいミスターレッズ像をつくるのかもしれない。