鹿島アントラーズの土台となった偉大な背番号10 ジーコ
Jリーグ開幕前の、鹿島アントラーズが住友金属だった時代。まだ3部リーグに所属していたチームに、ブラジルの黄金のカルテットと呼ばれた一人、ジーコがやってきた。
ジーコはサッカーとは何か、サッカーチームや選手とはどうあるべきかを基礎から教えてくれた。今でも鹿島は“ジーコスピリッツ”を土台とし、その教えに沿ってチームを創っている。
Jリーグ開幕前の、鹿島アントラーズが住友金属だった時代。まだ3部リーグに所属していたチームに、ブラジルの黄金のカルテットと呼ばれた一人、ジーコがやってきた。
ジーコはサッカーとは何か、サッカーチームや選手とはどうあるべきかを基礎から教えてくれた。今でも鹿島は“ジーコスピリッツ”を土台とし、その教えに沿ってチームを創っている。
固定背番号制導入後に鹿島で10番を背負ったのはビスマルクだ。Jリーグ開幕後、世間の注目を浴びていたヴェルディ川崎で中心選手の一人だったビスマルクが、1997年に鹿島に移籍し、5年にわたって背番号10を務めたのだ。
かつてはブラジル代表として活躍したジーコはビスマルクにとって、憧れであり英雄。そのジーコと同じ10番を付け活躍したビスマルクは、当時の2大強豪クラブでプレーしたJリーグ初期の重要人物と言える。
ブラジル代表のスーパープレーヤーのレオナルドが鹿島に加入した理由は、憧れのジーコの背中があったから。プレーヤーとしてテクニックはもちろん人としても素晴らしく、貴公子のイメージが強い選手だ。
トップ下を得意としていたがチーム貢献度も高く、どのポジションも高いレベルでこなせたため、日本サッカー界に衝撃を与えた。また、鹿島アントラーズのレベル向上にも大きく貢献した選手だ。
東福岡高校時代にサッカー選手権大会で優勝した際、「次世代の日本サッカーを背負う選手」と絶賛された本山雅志。独特なリズムのドリブルとボールさばきで、ファンを魅了した。
途中、病気によって選手生命が危ぶまれる時期を経験しながらも、素晴らしい人柄でチームを引っ張り多くのタイトルを獲得。黄金世代の代表でもあった背番号10は、鹿島の歴史の中でも欠かせない存在と言える。
高校サッカー選手権大会では高校2年時から「天才現る!」と世間から注目され、世代別代表でも一目置かれる存在だった柴崎岳。鹿島では既に2015シーズンにキャプテンマークを巻くほど信頼を得ており、その活躍でチームを引っ張るまでに成長。
2002年から長年背番号10番を務めた本山が移籍となり、2016年から新たに10番を任されたのが日本代表にも選出され実力充分な柴崎だった。