オリンピック馬術 日本で人唯一のメダリスト 西竹一
日本馬術界の長い歴史の中、唯一のオリンピック金メダリストといえば西竹一である。
馬術において優れた才覚を発揮しながらも、不遇の時代を生きた悲劇の主人公として知られている。名前は知らなくとも、「バロン西」という呼び名は聞いたことがあるかもしれない。西竹一は一体どのような人生を歩み、オリンピック金メダリストとして輝いたのだろう。
1902(明治35)年、東京の麻布で男爵家の三男としてこの世に生を受けた西竹一。西竹一は庶子であったが、2人いた兄が共に早世したため、西竹一が家を継ぎ男爵に。また、父とも早くに死に別れ、多額の財産を相続することになった。
馬術との出合い
西竹一が馬術と出会ったのは幼少期。華族のたしなみとして、ごく一般的に馬と触れ合っていた。
本格的に馬術の道に進むことになったのは、軍人として陸軍士官学校に進んでからだ。馬に惹かれ馬術を学び、22歳で陸軍騎兵将校になってからはより一層技術を高めていった。
騎兵連隊の一員としてテクニックの向上を目指し、数々の逸話も残している。有名なのが、「馬を調教し、自身が所有するオープンカーの上空を飛び越えさせた」というエピソード。粘り強く馬と接し調教し、周到な準備を整えた上での偉業達成だったのだろう。
馬術のテクニック、メダル獲得
オリンピックへの道を歩み始めたのは、25歳で騎兵学校の学生になってからである。持ち前の粘り強さと優れた才覚で、日本屈指の馬術選手に成長した。
馬術がオリンピックの正式競技となったのは1900年のパリ大会からで、1912年のストックホルム大会より競技が追加。西竹一が得意としていた障害飛越もこの時に正式種目になっている。
西竹一がオリンピックの選手候補になったのは、1930年ごろだった。馬術で優れた成績を収めるためには自身のテクニックだけではなく、優れた馬をパートナーにする必要がある。そのため、世界に目を向けた西竹一はウラヌスという馬を自腹で入手した。
ウラヌスを手に入れた西竹一はヨーロッパ中の大会に出場し、優れた成績を収めていった。そしてついに1932年のロサンゼルス大会、当時のオリンピック花形競技でもあった「馬術大賞典障害飛越競技」で金メダルを獲得したのである。
優れた才能とたゆまぬ努力、そして必要とあれば躊躇なく私財を投じられる決断力が、歴史に残る金メダルにつながったのだろう。日本人離れした彼の立ち居振る舞いは、世界中で人気だった。
オリンピック後も華やかな生活を送るが、軍人である以上戦争の影響は避けられない。ベルリンオリンピックの後に軍務に戻った西竹一は第二次世界大戦の最中の1944年、戦車第26連隊の連隊長として硫黄島へと派遣され、アメリカ軍との激戦ののち42歳でその生涯を閉じた。
西竹一は最後までウラヌスのたてがみを身につけていたとされ、その1週間後にウラヌスはこの世を去ったと伝えられている。
その他の日本人選手
西竹一が金メダルを獲得して以降、日本馬術界にオリンピックメダリストは誕生していない。平成以降では1996年アトランタ大会で総合馬術団体にて6位入賞を果たしたのが最高位だ。このときの団体メンバーは、岩谷一裕、木幡良彦、土屋毅明、布施勝だった。
近年では、好成績を収めた大会で団体キャプテンを務めた大岩義明や6度のオリンピック出場経験を持つ杉谷泰造など、注目選手も多数いる。東京大会では、新たな日本人メダリストが誕生する瞬間を見ることができるかもしれない。
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