仕事の重圧からボクシングジムへ
井上尚弥がパウンドフォーパウンドに選ばれるなど日本ボクシング界はレベルアップが著しく、活況を呈している。スターの出現は競技人口やファンを増やし、長い目で見れば間違いなく裾野を広げるだろう。
プロボクサーを志す理由は十人十色だが、岩永翔太(29=タキザワ)の場合は「メンタルを強くしたい」だった。本職の営業マンに加え、ライターとしても活動する異色のプロボクサー。「三足の草鞋」を履く岩永は客観的に自分を捉え、着実にキャリアアップしてきた。
大学を卒業後、新卒入社した会社で建材を売る営業マンとして社会人生活をスタート。その後、転職して現在は自動車部品を販売しているが、いずれにしても営業畑ひと筋だ。
営業マンは自社の商品を売って会社の利益を上げるのが仕事。取引先や顧客は商品への注文や値引きなどを求め、会社はできる範囲で対応するものの全てを受け入れていては収益にならない。そこで板挟みになるのが営業マンのつらいところだ。
岩永もそういった状況に悩み苦しんだ。上司からのプレッシャーに胃が痛くなり、眠れない夜もあった。責任感が強いため自らを責める日々。高校まではサッカーをしていたが、社会人になってからはスポーツをしておらず、「発散できてなかった」と振り返る。
メンタルを強くするために思いついたのが、友人が通っていたボクシングジム。当時26歳。格闘技経験は全くなかったが、肉体的、精神的に強くなるため練習生として通い続けた。
ボクシングジムでは、フィットネス目的の女性やストレスを発散したいサラリーマンから現役のプロボクサーまで様々な人が同じ空間で汗をかいている。岩永はジムで練習するプロボクサーを見て、プロへの意識が芽生えた。すでに27歳になっていた。
プロデビュー戦でKO負けして眼窩底骨折
営業マンとして仕事を終えると夜9時頃まで1時間半、ジムでみっちり練習する。まだまだ遊びたいはずの20代の若者にとって、その日常を続けることが簡単でないのは想像に難くない。しかし、岩永は自分に鞭を打ち続けた。
毎朝5時に起床して自宅周辺5キロのロードワークとシャドーボクシング、筋トレをこなす。午前9時出社すると午後7時まで働き、退勤してから飲みに行くこともカラオケに行くこともほとんどない。
ずぶの素人が左ジャブの反復練習から始めてひとつずつパンチを覚え、ガードやダッキングなどディジェンス技術も磨いた。気が付けば体力もついていた。
2020年10月、初めてのプロテストを受験。3分×2ラウンドのスパーリングと筆記試験をクリアし、一発合格した。27歳でプロボクサーとなり、「練習を頑張ってきてトレーナーにもお世話になっていたのでホッとしました」と当時の心境を語る。
しかし、ボクシングは甘くなかった。翌2021年3月のデビュー戦。食事制限で6キロほど減量してバンタム級(53.5キロ)4回戦のリングに上がったが、なんと1回43秒でTKO負けした。岩永の右ストレートに左フックを合わせられ、顎に強烈なカウンターを浴びてダウン。かろうじて立ち上がったものの相手のラッシュを受けたところでレフェリーがストップした。
「かなりショックでした。友達も見に来てたし、練習も目いっぱいしたし、トレーナーや会長にも申し訳なかったです」
それまでの練習でダウンした経験はなかったが、試合ではヘッドギアもつけず、グローブも小さいためパンチの衝撃が違う。「こんな簡単に倒れるんだと思いました」と自分でも驚いたことを明かす。
試合後、眼窩底骨折が判明。丸2カ月間、練習を休むことになった。
2戦目でプロ初勝利
KO負けのショックから立ち直り、骨折も完治。練習を再開した岩永に2戦目の舞台が訪れたのは、ちょうど1年後の2022年3月だった。
今度はデビュー戦より1階級下のスーパーフライ級(52.1キロ)。減量は厳しさを増したが、緊張でガチガチだったデビュー戦に比べると、落ち着いて戦うことができた。一進一退の攻防の末、4回判定勝ち。レフェリーに右手を掲げられ、初めて勝ち名乗りを受けた。
「勝てたのは嬉しかったですがが、納得いく内容ではなかったですね」。勝っても満足しないあたり、ボクシングを始めたきっかけだったメンタル面の成長は十分に達成できていた。
自分なりの課題も見つかり、8月に迎えたプロ3戦目。相手はアマチュア経験のある強敵・佐野遥渉(平石)だった。中日本スーパーフライ級新人王をかけた激闘は4回終了ゴングを聞き、結果は判定負け。「絶対負けると言われていたんで、逆に緊張はなかったです。4ラウンドまでできて少し自信になりました」と岩永は収穫を強調した。
佐野はその後も勝ち上がって新人王の西軍代表となり、12月17日の全日本新人王決定戦出場を決めている。
将来の夢は書籍出版
ボクシングを始めた頃から副業でライターとしても活動している。「スキルがない状態だったので将来に不安を感じ、手に職をつけるために始めました。元々、文章を書くのが好きだったので」とその理由を明かす。
ボクシングを始めスポーツは得意分野ではあるが、ジャンルは問わない。今はライターとしても実績を作るため、書く機会を増やしている。毎朝のロードワークを終えてから出社するまでが執筆時間だ。
将来の夢は書籍を出版すること。「ボクシングに絡めた出版をしてみたいです。メンタル的に強くなくて悩んだり、人の目が気になったりする人は多いですが、僕は肉体的にも精神的にも強くなれたし、前向きになれました。時間の使い方なども含めて、そういう体験したことを執筆したいですね」と構想を描く。
以前は上司や取引先のプレッシャーに押し潰されそうになったが、「何かあったら、ぶっ倒せると思えるようになりました。気持ちの持ちようですね」と笑顔を見せる。「嫌なことがあってもサンドバックを殴ってる時は忘れられるし、練習を終えるとなんで悩んでたんだろうと思います。ボクシングは本当にいいスポーツです」とも話す。
試合には職場の仲間も応援に駆けつけてくれる。「周りの見る目が変わったのは感じます」と話す通り、岩永は自ら壁を打ち破り、周囲の評価も高めた。4戦目は12月11日に組まれている。将来の夢に向けて「三足の草鞋」を履く岩永の挑戦はまだまだ終わらない。
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