「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

ファイティング原田の半生「黄金のバンタム」に生涯唯一の土をつけた日本最高のファイター

ファイティング原田,Ⓒゲッティイメージズ
このエントリーをはてなブックマークに追加

Ⓒゲッティイメージズ

エデル・ジョフレ氏が86歳で死去

かつて「黄金のバンタム」と称されたボクシングの元世界2階級王者エデル・ジョフレ氏が10月2日、肺炎による合併症のため死去したと各メディアで一斉に報じられた。86歳だった。

日本で一世を風靡した元プロレスラーのアントニオ猪木氏が亡くなった翌日、今度はブラジルからの訃報。昭和の格闘技界隆盛に深く関与した両者の訃報に悲しみを禁じ得ない。

日本のリングを中心に戦い、引退後も政界で活躍した猪木氏に比べると、ジョフレ氏について知る人は年々減っているだろう。しかし、間違いなく日本ボクシング史を語る上で避けて通ることはできない偉大なボクサーだ。

1965年、9度目の防衛戦のため来日したのが当時世界バンタム王者だったジョフレ。過去8度の防衛戦は全てKO勝ちで、その中には破格のパンチ力で「メガトンパンチ」の異名を取った日本の青木勝利をたった3回でKOした試合や、「ロープ際の魔術師」と呼ばれたジョー・メデル(メキシコ)を6回KOで破った試合も含まれていた。当時50戦無敗。世界の猛者たちを強打で倒してきた、まさに無敵の王者だった。

9人目の挑戦者が日本のファイティング原田。世界フライ級王座を追われ、2階級制覇を狙う22歳もさすがに勝ち目はないと見られていた。敬意を表して「黄金のバンタム」と呼ばれたジョフレは、雲の上の存在だったのだ。

19歳で世界フライ級王座を獲得した原田

当時のボクシング界は最軽量のフライ級からバンタム級、フェザー級、ライト級、ウェルター級、ミドル級、ライトヘビー級、ヘビー級の8階級。現在のように「スーパー」も「ジュニア」もなければ、WBCもIBFもWBOもなく、統括団体はひとつだけだった。文字通り、世界王者は各階級最強と認められ、チャンピオンベルトの価値は今より数段高かった。

ファイティング原田は笹崎ジムからプロデビューし、25連勝をマーク。海老原博幸、青木勝利とともに「フライ級三羽烏」と呼ばれた若手のホープだった。1962年10月10日、19歳の若さでポーン・キングピッチ(タイ)の持つ世界フライ級王座に挑戦し、「狂った風車」と呼ばれた怒涛のラッシュで11回KO勝ち。1987年に18歳9カ月の井岡弘樹が世界ミニマム級王座を獲得するまで国内最年少記録だった。

しかし、3カ月後に敵地タイで臨んだ再戦では15回判定負け。若きヒーローは一転して無冠となった。

当時は根性論がまかり通っていた時代。厳しい減量で喉の渇きに耐えられず、トイレの水さえ飲もうとしたという逸話も残る。キャリアとともに体も大きくなった原田は50.8キロのフライ級から、53.5キロのバンタム級に転向。世界の強豪がひしめく階級で世界を目指すことになった。

1963年9月に当時世界バンタム級3位だったジョー・メデルに6回KO負けしたが、翌1964年10月には東洋バンタム級王者の青木勝利に3回KO勝ち。フライ級王座陥落から2年、ランキングを世界バンタム級1位に上げた原田のジョフレ挑戦が決まった。

日本中が熱狂したジョフレ戦

1965年5月18日、大観衆で埋まった愛知県体育館。無敵王者のパワーとテクニックに息を吞みながらも、決して引けを取らない原田のボクシングに場内のボルテージが上がっていく。

4回、22歳の挑戦者の右アッパーがジョフレの顎をとらえると、王者はロープ際まで後退。チャンスと見た原田はポーン・キングピッチを倒した時のような怒涛のラッシュで追いつめる。ダウンこそ奪えなかったものの、この回は明確に原田がポイントを奪った。

5回以降はダメージから回復したジョフレも反撃。一進一退のまま15回終了のゴングが鳴った。3人のジャッジの判定は2-1で原田を支持。日本の若武者が「黄金のバンタム」に初黒星をつけ、2階級制覇を達成した。テレビの平均視聴率は54.9%。日本のお茶の間は「原田一色」だった。

初防衛戦でアラン・ラドキン(イギリス)を破った原田は、2度目の防衛戦で再びジョフレと対戦。前回と同じく15回判定で防衛に成功した。この時のテレビ視聴率はなんと63.7%をマークしている。

その後、5度目の防衛戦でライオネル・ローズ(オーストラリア)に敗れて王座陥落し、フェザー級に転向。1969年7月にWBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)にシドニーで挑戦し、3度ダウンを奪ったにもかかわらず、露骨な地元判定で15回判定負けを喫した。翌1970年1月に日本でファメションに再挑戦するが14回KO負け。3階級制覇は幻となり、56勝(23KO)7敗の戦績を残して引退した。

原田の名前を世界中に知らしめたのは、ジョフレという強い王者の存在が大きい。ジョフレは原田に敗れた後、フェザー級に転向し、2階級制覇。生涯戦績は72勝(50KO)2敗4分けだ。そう、原田以外には負けたことがなかったのだ。

引退後の原田はボクシングジム経営の傍ら、日本プロボクシング協会会長などの要職を務めた。日本ボクシング界の発展に貢献した最大の功労者の一人であることは間違いない。

ジョフレの偉大さに触れ、原田の偉大さを知る。後世に語り継がれるべき歴史だろう。

【関連記事】
那須川天心はボクシングで世界を獲れる?騒ぐ周囲を諫める関係者の重い言葉
ボクシング5階級制覇のシュガー・レイ・レナード、メイウェザーとの意外な因縁
ボクシング階級別世界王者一覧、日本選手未踏の階級は?