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長距離砲?助っ人外国人? プロ野球における背番号44の選手たち

2023 8/4 11:00SPAIA編集部
ロッテの井上晴哉、オリックスの頓宮裕真、巨人のウォーカー,ⒸSPAIA
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2023年現役選手の背番号「44」

2023年各球団の背番号「44」は下記の選手が背負っている。

オリックス:頓宮裕真捕手
ソフトバンク:笹川吉康外野手
西武:與座海人投手
楽天:田中貴也捕手
ロッテ:井上晴哉内野手
日本ハム:阪口樂内野手

ヤクルト:大西広樹投手
DeNA:小深田大地内野手
阪神:戸井零士内野手
巨人:アダム・ウォーカー外野手
広島:林晃汰内野手
中日:川越誠司外野手

不在:0球団
永久欠番:0球団
投手:2球団
捕手:2球団
内野手:5球団
外野手:3球団

背番号44は投手、野手どのポジションの選手も背負っているが、2023年は内野手が5球団で最多となっている。

阪神は「神様、仏様」と崇められたランディ・バースが付けていた番号で、今季からドラフト5位ルーキーの戸井零士が背負う。バース以外にも「44」は外国人選手が多い。過去にはブーマー・ウェルズ(元阪急)、タイロン・ウッズ(元横浜)といった長距離砲が着用。2023年は巨人のアダム・ウォーカーも背負っている。

長距離砲のイメージが強いのか、日本人選手でも2018年から2年連続24本塁打をマークした井上晴哉(ロッテ)、オリックスの中軸を打つ頓宮裕真、智弁和歌山時代に高校通算49本塁打を放った林晃汰(広島)ら長打力のある選手が着用。一方で、投手も大西広樹(ヤクルト)、與座海人(西武)の2人が背負っている。

次章以降では、背番号「44」にまつわる選手や球団の歴史などを紹介していく。

史上最高の助っ人バース

阪神のみならず、日本プロ野球界における史上最高の助っ人と呼ばれるランディ・バースが「44」の代表格だろう。1983年に阪神へ入団すると1年目から打率.288(371打数107安打)、35本塁打、83打点の成績を残す。

そして、1985年には打率.350(497打数174安打)、54本塁打、134打点で三冠王に輝き、21年ぶりのリーグ優勝、球団史上初の日本一に大きく貢献した。翌1986年も打率.389(453打数176安打)、47本塁打、109打点で二年連続となる三冠王。この年の打率.389はプロ野球記録となっている。

バースの退団後、背番号44を受け継いだのがセシル・フィルダーだった。フィルダーは来日1年目の1989年、106試合の出場で38本塁打を放つ活躍を見せたが、この年限りで退団。翌1990年にはデトロイト・タイガースで51本塁打を放ち、本塁打王に輝いた。

バース以前にもブリーデンが背負うなど、阪神の背番号44は伝説的な外国人が付けていた歴史がある。2021、22年にもラウル・アルカンタラが着用していたが、2023年から戸井零士が背負っている。

外国人選手初の三冠王ブーマー

1980年代に阪急で活躍したブーマー・ウェルズも背番号44だった。1983年に来日すると、2年目のシーズンに打率.355(482打数171安打)、37本塁打、130打点を記録し、三冠王に輝いた。

1991年まで阪急の後継球団オリックスに在籍し、1992年はダイエーでプレー。ダイエーでは1年しかプレーしていないものの、引退する38歳で打点王を獲得するなど、その力は最後まで衰え知らずだった。日本でプレーした10年間での通算打率.317は4000打数を超える右打者では最高打率となっている。

身長2メートル、体重100キロと大柄で、1989年にはプロ野球記録の34併殺打を記録するなど足は遅かった。一方でゴールデングラブ賞を2度獲得するなどグラブさばきは安定していた。野球殿堂入りも期待されたものの、わずかに票が足りず資格喪失となった。

「不惑の大砲」門田博光

外国人選手の多い背番号44だが、日本人選手でも大きな実績を残した選手はいる。プロ野球史上歴代3位となる567本塁打、1678打点を誇る門田博光だ。

門田は1969年ドラフト2位でクラレ岡山から南海に入団。2年目には打率.300(506打数152安打)、31本塁打、120打点の成績を残し、打点王のタイトルを獲得した。以降も順調にキャリアを積むが、1979年の春季キャンプ中にアキレス腱を断裂。終盤戦までリハビリに費やし、同年はわずか19試合の出場に終わった。

1980年からは心機一転、背番号を「27」から「44」に変更して41本塁打をマーク。翌1981年には44本塁打で自身初の本塁打王に輝いた。「44」を背負ったのは1980年から1982年までの3年間だけだったが、インパクト十分の活躍だった。

背番号を「44」に変更したのは44本塁打を目指すことから付けたものでもあった。44本塁打を達成したため、1983年には60本塁打を目指す意思を示す「60」へと変更した。

以降も1983年、1988年に本塁打王のタイトルを獲得。その後、オリックス、ダイエーとわたり歩き、1992年に23年間の現役生活にピリオドを打った。40歳を超えてもなお活躍をしたことから「不惑の大砲」と呼ばれていたことでも知られている。

755本塁打を記録したハンク・アーロン

メジャーリーグにおいて、長らく本塁打記録を持っていたのがハンク・アーロンだ。ベーブ・ルースが持っていた714本塁打の世界記録を更新し、755本まで伸ばした大打者。後にバリー・ボンズがこの記録を更新したものの、薬物疑惑もありアーロンがナンバー1と唱えるファンも多い。

アーロンは1954年のメジャーデビュー時こそ背番号「5」を着用していたが、翌1955年から背番号「44」に変更。引退する1976年まで背負い続けた。現役引退後にはブレーブス、ブルワーズにおいて永久欠番に指定された。

また、868本塁打を放った王貞治とも親交が深く、二人が中心となって世界少年野球大会を行うなど野球界の発展に尽力。2021年1月22日、86歳でこの世を去った。

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