2023年現役選手の背番号「40」
高橋慶彦選手(元広島他)や福本豊選手(元阪急)といった名選手がブレイク前に背負っていた背番号「40」。2023年各球団の「40」は下記の選手が背負っている。
オリックス:レアンドロ・セデーニョ内野手
ソフトバンク:杉山一樹投手
西武:田村伊知郎投手
楽天:内間拓馬投手
ロッテ:西村天裕投手
日本ハム:福田俊投手
ヤクルト:市川悠太投手
DeNA:松本隆之介投手
阪神:井坪陽生外野手
巨人:中山礼都内野手
広島:磯村嘉孝捕手
中日:森山暁生投手
不在:0球団
永久欠番:0球団
投手:8球団
捕手:1球団
内野手:2球団
外野手:1球団
背番号「40」を背負っているのは若手選手が多い。巨人の中山礼都は中京大中京高から2020年ドラフト3位で入団し、2年目の昨季5月に一軍デビューを果たした。今季も47試合に出場するなど、坂本勇人の後釜候補として大きな期待がかけられている。
阪神のドラフト3位ルーキー・井坪陽生は、高卒1年目ながら二軍で62試合に出場して、打率.291の好成績。早くも非凡な打撃センスを見せている。
また、今季移籍した選手の活躍も目立つ。トレードでロッテに加入した西村天裕は中継ぎとして31試合に登板して、2勝0敗8ホールド、防御率0.87と躍動。オリックスに育成選手として加入したセデーニョは5月に支配下登録されると、打率.302、7本塁打、26打点と大活躍を見せている。
ポジション別では投手が多いものの特定のイメージはなく、活躍次第で若い番号に変更されることも多い。そんな背番号「40」を着用していたかつての名選手を次章以降で紹介していく。
広島の名捕手・達川光男
広島の監督や阪神、中日、ソフトバンクなどのコーチを歴任した達川光男氏。現役時代は広島で長らく正捕手を務め、背番号「40」を背負っていた。
広島商業時代には1973年センバツで「怪物」と呼ばれた江川卓を擁する作新学院を破って準優勝。東洋大では東都大学リーグでベストナインに選ばれるなど結果を残し、1977年ドラフト4位でプロ入りを果たした。
6年目の1983年にレギュラーを獲得すると、1992年に現役を引退するまで正捕手として活躍。通算1334試合に出場し895安打、51本塁打、358打点の成績を残している。
達川氏は巧みなリードもさることながら、珍プレーでの印象も強かった。試合中にコンタクトレンズが外れ、地面に這いつくばりながら探したり、相手投手の投球が自らのユニフォームをかすめると大げさなリアクションで審判に死球をアピールしたり、テレビ番組の常連だった。
1999年から2年間務めた広島監督時代の背番号は74。結果は2年連続5位だった。
広島の背番号「40」は達川以降、吉本亮、倉義和、そして現在の磯村嘉孝と捕手へと受け継がれる番号となっている。
中日、日本ハムで活躍し名球会入りした大島康徳
現役時代は中日、日本ハムの2球団で通算2204安打をマークして名球会入りも果たした大島康徳氏。。引退後は2000年から2002年まで3年間、日本ハムの監督を務めた。
大島氏は1968年ドラフト3位で中津工業高から中日へ入団。背番号「40」を与えられた。3年目の1971年に71試合に出場すると、翌1972年には124試合に出場。打率.230(387打数89安打)ながらレギュラーに定着する。
以降、1976年まで「40」でプレーし、「5」に変更した1977年に初めての打率3割となる.333(433打数144安打)をマーク。1983年には36本塁打で初タイトルとなる本塁打王に輝き、1987年まで中日の主軸として活躍した。1988年から日本ハムへ移籍し、1994年まで現役を続けている。日本ハム時代の背番号は「11」だった。
監督としてはAクラス1回(2000年3位)の成績を残したものの、優勝には届かず2002年に退団した。
広島のトップバッター・高橋慶彦
長らく赤ヘル軍団の一員として活躍した高橋慶彦氏は、広島、ロッテ、阪神の3球団でプレーし、通算1826安打を放った名選手だった。
1974年ドラフト3位で城西高校から広島入団した当時の背番号は「40」。高卒ルーキーということもあり、1年目は一軍昇格がなく二軍でシーズンを終えた。2年目に一軍で5試合に出場すると、3年目の1977年には58試合に出場し、規定打席には届かなかったものの打率.292(130打数38安打)の成績でブレイクのきっかけを掴んだ。
同年オフに背番号を「40」から「2」に変更。「江夏の21球」で有名な1979年の日本シリーズでは近鉄との死闘を制して日本一となり、シリーズMVPに輝いた。盗塁王のタイトルも3度獲得するなど俊足としてならし、広島の中心選手として活躍した。
「世界の福本」こと福本豊
通算1065盗塁、13年連続盗塁王など日本プロ野球において多くの盗塁記録を残した福本豊氏。背番号「7」のイメージが強いが、入団当初は「40」を背負っていた。
1968年ドラフト7位で松下電器から阪急に入団。2年目の1970年にレギュラーを獲得して127試合に出場し、75盗塁で盗塁王のタイトルを獲得した。翌1971年にも67盗塁を記録し、2年連続盗塁王。同年オフに背番号「40」から「7」に変更となった。1972年には現在もプロ野球記録の106盗塁をマーク。その後も1982年まで13年連続で盗塁王に輝いた。
盗塁記録だけでなく、三塁打も日本球界最多となる115本を放っている。日米通算ではイチローが119本の三塁打をマークしているが、NPBで現役最多は松田宣浩(巨人)の67本となっており、三塁打記録数を更新されることは当分なさそうだ。
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