プロ野球における背番号37の名選手たち|【SPAIA】スパイア

「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

プロ野球における背番号37の名選手たち


2017年現役選手の背番号「37」

2017年各球団の背番号「37」は下記の選手が背負っていた。

日本ハム:矢野謙次選手(外野手)
ソフトバンク:福田秀平選手(外野手)
ロッテ:三木亮選手(内野手)
西武:岡田雅利選手(捕手)
楽天:嶋基宏選手(捕手)
オリックス:若月健矢選手(捕手)
広島:野間峻祥選手(外野手)
巨人:田原誠次選手(投手)
DeNA:桑原将志選手(外野手)
阪神:森越祐人選手(内野手)
ヤクルト:星野雄大選手(捕手)
中日:三ツ俣大樹選手(内野手)

不在:0球団
永久欠番:0球団
投手:1球団
捕手:4球団
内野手:3球団
外野手:4球団

2017年に背番号「37」を背負っている選手を見ると、捕手の多さが目立つ。岡田雅利選手(西武)、嶋基宏選手(楽天)、若月健矢選手(オリックス)、星野雄大選手(ヤクルト)と4人がこの番号を着用している。背番号「27」も4選手が背負っており、「7」が入る数字が捕手の背番号におけるトレンドなのかもしれない。

捕手以外では外野手が4球団で使用。横浜DeNAベイスターズでレギュラーに定着した桑原将志選手、広島東洋カープで緒方孝市監督の番号を受け継いだ野間峻祥選手と今後に期待が掛かる選手達だ。また、現在までに日本プロ野球において永久欠番はいない。
しかしメジャーリーグでは選手ではなく監督として、ケーシー・ステンゲル氏が2球団において永久欠番となっている。

プロ野球選手会会長を務める嶋基宏選手

東北楽天ゴールデンイーグルスの正捕手でもある嶋基宏選手。2006年大学生・社会人ドラフト3位で國學院大學から楽天へ入団し、1年目からレギュラーを確保する。
野村克也監督から怒られながらもリード・配球を研究し、リーグ屈指の捕手へと成長。試合中に野村監督の横に立ちながら説教を受けるシーズンは、度々テレビなどでも流されていた。

その後、成長を重ねた嶋選手は侍ジャパン日本代表にも選出される存在となる。第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも、直前まで候補選手となっていたが、故障により離脱し、残念ながらWBCには出場できなかった。

嶋選手は入団以来背番号「37」を背負っており、楽天の「37」は嶋選手のトレードマークだ。リーダーシップもあり、中京大中京高校、國學院大学では主将も務めている。
2011年の東日本大震災後のスピーチでは「見せましょう、野球の底力を」といった名言を残し、多くの人々の心も打った。2017年現在プロ野球選手会会長も任されており、その存在感は抜群だ。

「神ってる」の生みの親!緒方孝市監督の現役時代は「37」がルーツ

2015年から広島東洋カープの指揮を執っている緒方孝市監督。1986年ドラフト3位で広島に入団を果たし、背番号「37」で現役生活をスタートさせる。
高卒と言うこともあり出番は少なかったものの、5年目の1991年に102試合に出場するとその後も出場機会を確保。1995年には101試合に出場。規定打席到達はできなかったものの、47盗塁をマークし盗塁王を獲得した。この活躍がありオフに背番号を「37」から「9」に変更することとなった。

緒方選手はケガが多かったものの、2009年まで22年間に渡って現役生活を続け、1506安打、268盗塁をマーク。広島におけるスター選手のひとりとして活躍する。
引退後(晩年は選手兼任)もコーチとしてチームに残り、2015年から監督となった。監督となってからは、球団史上2度目の連覇を果たすなど実績を残している。

また、2016年には2試合連続サヨナラ本塁打を放った鈴木誠也選手を「神ってる」と表現。そのフレーズがユーキャン新語・流行語大賞を受賞したことで、お茶の間にも名前が知れ渡っている。

『ミスターファイターズ』こと田中幸雄選手

日本ハムファイターズ一筋22年、通算2012安打を放ち、名球会入りも果たしている田中幸雄選手。清原和博選手や桑田真澄選手らで沸いた1985年のドラフト会議で、3位指名を受けプロ入りを果たす。
最初に与えられた背番号は「37」だった。高卒1年目は14試合の出場にとどまるが、2年目となる1987年に112試合に出場。1988年からは4年連続全試合出場を果たし、レギュラーに定着した。
キャリア序盤である1986年から1990年までを背番号「37」で過ごし、その後「6」へと変更になったのだ。

以降も日本ハムを象徴する選手として、北海道移転後の2007年まで現役を続けた田中選手。現役最終年には2000本安打も達成し、名球会入りを達成。打撃タイトルは1995年の打点王1度のみだったが、『ミスターファイターズ』として人気を博していた。

また入団当初の1986年から1989年までの4年間は、同姓同名の田中幸雄選手(投手)がいたこともあり、表記は田中雄となっていた。また、田中幸雄投手が190センチと大柄で『オオユキ』と呼ばれていたのに対し、田中幸雄選手は184センチと小柄ではなかったものの『コユキ』と呼ばれることもあった。

退団後もコーチとして日本ハムを支え、2015年から2017年まで二軍監督を務め、若手選手を一軍に送り込んでいた。

ヤンキースで世界一を7度達成したケイシー・ステンゲル監督

1950年代にニューヨークヤンキースの指揮を執り、一時代を築いたケーシー・ステンゲル監督。10度のリーグ優勝、7度のワールドチャンピオンに輝くなど大きな実績を残している。
監督としてメジャーリーグではブルックリンドジャース、ボストンブレーブス、ヤンキース、ニューヨークメッツの4球団で采配を振るったステンゲル監督。
メッツ、ヤンキースで背負った背番号「37」がそれぞれ永久欠番に制定されている。

名采配も数多く見せたが、それよりも『ステンゲル語録』と呼ばれるほど多くの名言(迷言)を残したことでも有名だ。
ヤンキースで常勝チームを率いた後に指揮を執ったメッツでは、新チームということもありチーム力が低く好成績を残すことはできなかった。その際には「メッツの試合よりひどいのは、メッツのダブルヘッダーだけ」と自虐的なネタを披露。それほどまでにひどいチーム状況だったのだ。
それはチーム成績を見てもよくわかる就任1年目の1962年は40勝120敗1分、勝率.250とチーム史上唯一となる勝率3割未満だった。嘆きたくなるのもよくわかる成績だった。

メッツで1965年途中まで采配を振るい退団。翌1966年にアメリカ野球殿堂入りを果たしている。

おすすめの記事

関連記事

プロ野球 試合経過・結果

セ・リーグ

4/24 22:13更新

パ・リーグ

4/24 22:13更新

交流戦

オールスター

クライマックスシリーズ

日本シリーズ

4/24 22:13更新

B1 順位表

東地区
中地区
西地区
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}

プロ野球 OPS順位

セ・リーグ
パ・リーグ
 選手名・所属チームOPS 
{{index + 1}}{{item.raw.Name}}{{item.raw['ShortName-Team']}}{{item.metrics.ops.toFixed(3)}}{{item.metrics.ops.toFixed(3).substring(1)}}
 選手名・所属チームOPS 
{{index + 1}}{{item.raw.Name}}{{item.raw['ShortName-Team']}}{{item.metrics.ops.toFixed(3)}}{{item.metrics.ops.toFixed(3).substring(1)}}

人気記事ランキング

関連記事

SPAIA スポーツコラム ライター募集中!