プロ野球における背番号39の名選手たち|【SPAIA】スパイア

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プロ野球における背番号39の名選手たち


2017年現役選手の背番号「39」

2017年各球団の背番号「39」は下記の選手が背負っていた。

日本ハム:高梨裕稔選手(投手)
ソフトバンク:島袋洋奨選手(投手)
ロッテ:不在
西武:呉念庭選手(内野手)
楽天:下妻貴寛選手(捕手)
オリックス:小林慶祐選手(投手)
広島:飯田哲矢選手(投手)
巨人:マイコラス選手(投手)
DeNA:嶺井博希選手(捕手)
阪神:長坂拳弥選手(捕手)
ヤクルト:リベロ選手(内野手)
中日:加藤匠馬選手(捕手)

不在:1球団
永久欠番:0球団
投手:5球団
捕手:4球団
内野手:2球団
外野手:0球団

2017年シーズンは捕手が4球団で着用している背番号「39」。土井淳選手(元・大洋)、矢野輝弘選手(元・阪神他)といった捕手が着用していた番号だからだろう。東北楽天ゴールデンイーグルスでは球団創設以来、捕手の番号として受け継がれている。

また、外国人選手の着用も多い。2017年シーズンはマイコラス選手(巨人)、途中入団のリベロ選手(ヤクルト)がこの番号を背負っている。過去にはデストラーデ選手(元・西武)、グリーンウェル選手(元・阪神)、ミッチェル選手(元・ダイエー)などが使用していた。

スイッチヒッターの本塁打王!デストラーデ選手

1980年代後半から1990年代にかけての西武ライオンズ黄金時代に、助っ人として活躍したオレステス・デスオラーデ選手。1989年シーズン途中に日本へやってくると本塁打を量産する。わずか83試合の出場で、32本塁打、打点81をマーク。打率.257(292打数75安打)と確実性は低かったものの、相手投手からは恐れられた。
翌1990年シーズンからは3年連続本塁打王を獲得するなど、西武の黄金時代に大きく貢献。眼鏡をかけており、優しそうな風貌とは裏腹に恐怖の打者だったといえるだろう。また、日本プロ野球史上初のスイッチヒッターによる本塁打王でもあり、球史に名を残した。

1993年にメジャーリーグのフロリダマーリンズと契約し、2年間プレーした後、1995年に再来日。西武へ3年ぶりの復帰となった。しかし、全盛期の活躍はできずに打率.245(163打数40安打)、6本塁打、23打点といまひとつ。シーズン途中に退団となってしまう。

マーリンズ時代含め、1989年から1995年までの6年間を背番号「39」で過ごしたデストラーデ選手。西武の背番号「39」といえば未だ、この選手の名前が挙がることもあるほどだ。
2017年シーズン、この番号を背負っている呉念庭選手にはデストラーデ選手の活躍を超える成績を残すことができるだろうか。今後に期待がかかる。

ダイエーにやってきたお騒がせ男!ミッチェル選手

日本にやってきた大物外国人選手の上位にランクインするであろうケビン・ミッチェル選手。1995年に福岡ダイエーホークスへやってきた強打が売りの長距離砲だ。
来日前の1989年には、当時所属していたサンフランシスコジャイアンツで本塁打王(47本塁打)、打点王(125打点)を獲得。シルバースラッガー賞、MVPにも輝いた超大物選手だ。ダイエーは年俸4億円超を払い獲得し、ファンはその本塁打に期待を膨らませた。

その期待通りにミッチェル選手は、開幕戦の初打席で満塁本塁打を放つという衝撃的なデビューを飾っている。しかし、その後は熱発で欠場、体の痛みを次々に訴える『不良外国人』ぷりを発揮。37試合に出場し打率.300(130打数39安打)、8本塁打、28打点と悪い成績ではなかったもののシーズン途中に解雇となった。

その後、年俸の全額支払いを求め裁判となるなど、最後の最後まで『お騒がせ男』ぶりを発揮したミッチェル選手。ファンの記憶に残る選手だったことはまちがいない。

2001年に同じくダイエーに所属したトニー・ミッチェル選手はケビン・ミッチェル選手のいとこにあたる。トニー・ミッチェル選手は球団と問題にはならなかったが、63試合で打率.193(181打数35安打)と結果を残すことができなかった。

神のお告げで帰国したグリーンウェル選手

1997年当時の阪神タイガース史上最高年俸となる3億円(推定)で契約し、日本へやってきたマイク・グリーンウェル選手。
ボストンレッドソックスで12年にわたりプレーし、打率.303(4623打数1400安打)、130本塁打、726打点を記録したバリバリのメジャーリーガーだった。規定打席到達した上での打率3割を5度、1988年にはシルバースラッガー賞も受賞しており大きな期待が寄せられていた。

しかし、日本にやってきたグリーンウェル選手はわずか7試合の出場で骨折し、『神のお告げ』により無断帰国をしたため、そのまま退団となった。
残した成績は打率.231(26打数6安打)、0本塁打、5打点。後に阪神は、グリーンウェル選手に対し訴訟を起こすほどの騒動にもなったほどだ。

阪神ファンだけでなく、日本のプロ野球ファンから非難を浴びる結果をなってしまった。しかし、レッドソックスでの成績にケチをつけるファンはおらず、2008年にチームの殿堂入りを果たしている。

ミッチェル選手(1995年)、グリーンウェル選手(1997年)と立て続けに背番号「39」の外国人選手は悪評を残したのは偶然だろうか。すでに20年以上経過しているが、背番号「39」の新外国人選手に注目したい。

秋山登選手とバッテリーを組んだ土井淳選手

1960年に大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)が球団史上初となる優勝を飾った際、正捕手として君臨したのが土井淳選手だった。土井選手は1956年に明治大学から大洋へ入団。
1年目から85試合に出場するなど即戦力として活躍を果たしていた。2年目に背番号を「39」へ変更するとレギュラーに定着。優勝を果たした1960年にはベストナインにも輝いている。

その土井選手はエースでもあった秋山登選手と、長年にわたりバッテリーを組んでいたことでも有名だ。大洋に入団する以前の岡山東高校、明治大学時代からふたりは一緒にプレーしていた。
また、1956年に明治大学から大洋入りを果たした際は秋山選手、土井選手のほかに沖山光利選手黒木弘重選手、岩岡保宏選手も同時に入団している。この5人は『明大5人衆』とも呼ばれ大きな期待を掛けられていたのだ。しかし、秋山選手、土井選手を除き他の3人は実績を残すことはできなかった。

そのなかで土井選手は期待通りの活躍を見せ、1960年の優勝に貢献。現役引退後には大洋の監督を2年間(1980年、1981年)務めている。

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