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プロ野球における背番号40の名選手たち

2017 12/24 12:24cut
野球,ホームランナー
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中日、日本ハムで活躍し名球会入りした大島康徳選手

2017年にがんの闘病を発表した大島康徳氏。現役時代は中日ドラゴンズ、日本ハムファイターズの2球団で活躍し2204安打を記録。名球会入りも果たしている。また、2000年から2002年までの3年間にわたって日本ハムの監督を務めたりもした。

その大島選手は、1968年ドラフト3位で中津工業高校から中日へ入団。背番号「40」を与えられ現役生活を開始する。1971年に71試合で出番を与えられると、翌1972年には124試合に出場。打率.230(387打数89安打)と確実性は低かったがレギュラーに定着する。
以降、1976年までこの番号でプレーし1977年から背番号を「5」に変更。すると、1977年にはじめて打率3割を超え打率.333(433打数144安打)をマークする。

1983年には36本塁打で初の打撃タイトルとなる本塁打王を獲得し、1987年オフまで中日で活躍した。その後1988年から日本ハムへ移籍し、1994年まで現役を続けている。日本ハム時代の背番号は「11」だった。

監督としてはAクラス1回(2000年3位)の成績を残したものの、優勝には届かず2002年に退団。その後は解説者などを歴任し、現場での指導は行っていない。

広島のトップバッター!高橋慶彦選手

広島東洋カープで、赤ヘル軍団の一員として活躍した高橋慶彦選手。広島、ロッテオリオンズ、阪神タイガースの3球団でプレーし、通算1826安打を放った名選手でもある。ブレイク前の高橋選手の背番号は「40」で、1974年ドラフト3位で城西高校から広島へ入団している。
高卒ルーキーということもあり、1年目は一軍昇格がなく二軍で1年を終える。2年目に一軍で5試合に出場すると、3年目の1977年には58試合で出番が与えられる。そこで規定打席には届かなかったものの打率.292(130打数38安打)の成績を残し、ブレイクのきっかけを掴んだのだ。このオフに背番号を「40」から「2」へと変更している。

1979年に広島が日本一となった際は有名な『江夏の21球』を遊撃手から見守っていた。その日本シリーズで高橋選手はMVPに輝く活躍を見せた。その後、盗塁王を3度獲得するなど俊足としてならし、広島の中心選手として活躍を果たしている。

また、豪快な人物でも知られており清原和博選手(元・巨人他)も、高橋選手には恐れていたとテレビ番組で語っていたほどだ。さらには、レコードなども出しており5万枚のセールスを記録している。

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