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プロ野球における背番号30の名選手たち

2018 1/1 19:05cut
野球ボール,グローブ
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掛布雅之選手とのライバル物語:江川卓選手

読売ジャイアンツの選手において、背番号「30」といえば江川卓選手だろう。法政大学卒業時の1977年ドラフト会議で、クラウンライターライオンズから1位指名を受けたが入団を拒否。翌1978年ドラフト会議前日に、読売ジャイアンツと契約したという通称「空白の一日事件」だ。
しかし、この契約は認められず、巨人はドラフトをボイコットし、4球団が1位指名を行った結果、阪神タイガースが江川選手の交渉権を獲得した。その後、江川選手は阪神に一度入団し、トレードする形で巨人入りを果たすことになる。その際に与えられた背番号が「30」だった。

江川選手は1年目こそ9勝10敗と負け越しに終わるが、2年目に16勝を挙げ最多勝を獲得。ここから引退する1987年まで8年連続で二桁勝利を達成するなど、リーグを代表する投手となった。

また、同学年にあたる「ミスタータイガース」こと掛布雅之選手(阪神)とは、毎年のように名勝負を繰り広げていた。初対決では、高卒でプロ入りを果たしている掛布選手がプロの先輩としての意地を見せ本塁打し、これが名勝負の始まりとなったのだ。
その後も掛布選手とは、巨人のエースと阪神の4番という立場で幾度となく対戦しており、江川選手の引退年である1987年に行われた最後の対戦では、掛布選手から三振を奪い名勝負の幕は閉じた。江川選手は掛布選手に14本塁打を浴びたものの、21個の三振を奪っている。掛布選手も江川選手の後を追うように、翌1988年に現役を引退した。

江川選手の引退以降、翌年からは橋本清選手が背番号「30」を着用しており、投手の番号として受け継がれている。

歴代最多勝:鶴岡一人監督

読売ジャイアンツ以外の球団でも、背番号「30」は監督が着用していた。福岡ソフトバンクホークスの前身球団でもある南?ホークス(1938年から1946年まではグレートリング)は、1938年から1965年まで一貫して背番号「30」は監督の番号だった。(1947年~1952年までは山本一人選手兼任監督)

なかでも1947年に山本一人選手兼任監督(1959年に鶴岡一人に改姓)が、「1」から「30」へ変更すると1965年まで19年間着用している。背番号「30」を着用していなかったシーズンも含め、23年間にわたる監督生活で積み上げた白星は1773で、これは日本プロ野球史上最多勝利数となっている。また、勝率.609は歴代トップの数字となっており、長く監督を務めただけではないことがわかる。

鶴岡監督以降1979年まで空き番号となっていた背番号「30」だが、1980年に高英傑選手が着用すると、その後は一度も空き番号となることなく、2012年からはドラフト1位で入団した武田翔太選手が使用している。

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