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村田兆治、与田剛らが背負った剛腕の系譜 プロ野球における背番号29の選手たち

2024 8/18 06:00SPAIA編集部
(左から)オリックスの田嶋大樹、ヤクルトの小川泰弘、ソフトバンクの石川柊太,ⒸSPAIA
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2024年現役選手の背番号「29」

投手の着用が目立つ背番号「29」。過去には、“マサカリ投法”で通算215勝を挙げたロッテ・村田兆治や中日で抑えを務めた与田剛、メジャーでも「29」を着けた左腕の井川慶(阪神、オリックス)ら、剛腕が背負ってきた。

2024年における各球団の背番号「29」は下記の通り。

阪神:髙橋遥人投手
広島:ケムナ誠投手
DeNA:伊藤光捕手
巨人:フォスター・グリフィン投手
ヤクルト:小川泰弘投手
中日:辻本倫太郎内野手

オリックス:田嶋大樹投手
ロッテ:西野勇士投手
ソフトバンク:石川柊太投手
楽天:高田孝一投手
西武:青山美夏人投手
日本ハム:細野晴希投手

不在:0球団
投手:10球団
捕手:1球団
内野手:1球団
外野手:0球団

2024年は10球団で投手が背負っている背番号「29」。2024年に変更があったのは、阪神、中日、日本ハムの3球団。中日はドラフト3位ルーキーの辻本倫太郎、日本ハムはドラフト1位ルーキーの細川晴希が新たに着用している。

阪神は7月に支配下に復帰した髙橋遥人が背番号も「29」に。2023年に「左尺骨短縮術」及び「左肩関節鏡視下クリーニング術」を受けて同年オフに育成選手となっていたが、入団時と同じ背番号で再スタートを切る。

その他の球団の顔ぶれを見てみると、2020年にノーヒットノーランを達成した小川泰弘(ヤクルト)をはじめ、実績ある投手が少なくない。

2014年から3年連続20セーブ以上を挙げた西野勇士(ロッテ)、2018、2020年に二桁勝利を挙げた石川柊太(ソフトバンク)の育成出身組に、2017年ドラフト1位でパ・リーグ3連覇にも貢献した田嶋大樹(オリックス)ら実力派が揃っている。

そんな背番号「29」を着用していた歴代の名選手や特徴的な球団の系譜を、次章以降で紹介していく。

「サンデー兆治」こと村田兆治

ロッテの背番号「29」と言えば、村田兆治が代表的だろう。村田は1967年ドラフト1位で福山電波工業高校からロッテに入団し、背番号「29」を与えられた。

高卒ルーキーということもあり1年目は3試合の登板に終わったが、2年目には37試合に登板し、先発も20試合任されている。その後、1971年に初の二桁勝利となる12勝をマーク。1975年には先発、中継ぎとフル回転し、13セーブで最多セーブに輝いた。また、この年から2年連続で最優秀防御率のタイトルも獲得、1981年には最多勝にも輝いた。

その後、ヒジを故障し、1983年にトミー・ジョン手術を受けている。当時の日本では一般的ではなかったため、アメリカへ渡っての施術は話題になった。

リハビリを経て1984年終盤に復帰。翌1985年には、日曜日に先発するローテーションで連勝記録を続けたことから「サンデー兆治」と呼ばれ、17勝をマークした。1989年には自身3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得し、通算200勝を達成。1990年には二桁勝利(10勝)を挙げながら現役を引退している。

村田はロッテ一筋で215勝をマークしたが、背番号「29」は永久欠番とはならなかった。引退から15年経った2005年に野球殿堂入りを果たしている。

「サンデー兆治」から「サンデー晋吾」へ

ヒジの故障から「サンデー兆治」として復活した村田兆治の引退後、ロッテの背番号「29」は4選手を経て、2001年から小野晋吾が着用した。

小野は1993年ドラフト6位で御殿場西高校からロッテへ入団し、背番号は「63」だった。1997年に一軍デビューを果たすものの結果は出ず、プロ入り7年目となる2000年、日曜日に9連勝したことでブレイクし「サンデー晋吾」と呼ばれた。

この年は13勝をマークして最高勝率のタイトルを獲得。同年オフに、村田の背負っていた背番号「29」に変更となった。

2001年以降もタイトル獲得こそなかったものの、2度の二桁勝利をマークするなど、先発ローテーション投手として活躍。2013年に現役を引退するまで85勝(77敗)を挙げた。現役引退後はスカウトを経て一・二軍の投手コーチを歴任している。

「ベンチがアホやから野球がでけへん」江本孟紀

歯に衣着せない物言いが売りでもある江本孟紀は、1971年に東映へ入団したものの、わずか1年で南海にトレード移籍。1972年から1975年まで4年連続で2桁勝利をマークした。

1975年オフには3球団目となる阪神にトレードされ、現役引退する1981年まで阪神で背負ったのが「29」だった。

阪神1年目の1976年から15勝を挙げる活躍。1979年まで南海時代を含めて8年連続で二桁勝利をマークするなどチームに貢献した。その後も現役引退までに通算113勝をマークしている。

江本の現役引退にまつわるエピソードは有名だ。1981年8月、江本が打ち込まれて降板した際、「ベンチがアホやから野球がでけへん」といった趣旨の発言をし、監督批判と取られたため謝罪、同年限りでの現役引退を表明した。この発言に関して江本は、実際には言っていないと否定をしていたが、最終的には認めている。

速球派が続いた中日の背番号「29」

中日における背番号「29」は、速球派のイメージが強い。鈴木孝政、与田剛と2人の剛球投手が続けてこの番号を着用したからだ。

鈴木孝政は1972年ドラフト会議で1位指名を受け、千葉県・成東高校から中日に入団。2年目の1974年から中継ぎとして出番が増え始め、翌1975年にはリーグ最多の67試合に登板。21セーブを挙げて最多セーブに輝いている。リリーフ投手ながら、規定投球回に到達するなど、現在のような1イニング限定ではなかった。

その後も1976年、1977年と連続で規定投球回に到達。1976年には最優秀救援投手、最優秀防御率の二冠に輝いている。スピードガンが普及する前の時代のため正確な球速はわからないものの、150キロを超えていると言われていた。

1982年途中に先発へ転向すると1984年には16勝をマーク。1989年に現役を引退するまでに124勝、96セーブを挙げた。鈴木は長嶋茂雄・長嶋一茂親子と公式戦で対戦した唯一の投手でもある。

その鈴木が引退した直後の1990年から、背番号「29」を着用したのが与田剛だ。1989年ドラフト1位でNTT東京から中日へ入団。150キロを超えるストレートで押す強気の投球は評価が高く、鈴木の「29」を受け継いだ。

1年目から抑えに抜擢され、31セーブをマークして最優秀救援投手のタイトルを獲得。佐々岡真司(現広島監督)と争った新人王にも輝いた。

しかし、その後は故障もあり、1年目がキャリアハイとなった。2000年に現役を引退後は、野球解説者を経て日本代表のコーチを歴任。2016年からは楽天の投手コーチ、2019年から2021年まで中日の監督を務めた。

与田以降は3選手を経て、2002年から山井大介が着用。2021年に現役を引退するまで、鈴木の17年を上回り球団最長となる20年間、背番号「29」を背負い続けた。

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