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エース番号のイメージを清宮幸太郎が塗り替える? プロ野球における背番号21の選手たち

2023 6/5 11:00SPAIA編集部
楽天の早川隆久、ロッテの吉井理人監督、日本ハムの清宮幸太郎,ⒸSPAIA
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2023年現役選手の背番号「21」

投手の番号として定着している背番号「21」。2023年各球団の背番号「21」は下記の選手が背負っている。

オリックス:竹安大知投手
ソフトバンク:和田毅投手
西武:不在
楽天:早川隆久投手
ロッテ:吉井理人監督
日本ハム:清宮幸太郎内野手

ヤクルト:吉村貢司郎投手
DeNA:今永昇太投手
阪神:秋山拓巳投手
巨人:不在
広島:中﨑翔太投手
中日:岡田俊哉投手

不在:2球団
永久欠番:0球団
監督:1球団
投手:8球団
捕手:0球団
内野手:1球団
外野手:0球団

西武は昨季限りで十亀剣が現役を引退、巨人も井納翔一がユニフォームを脱いだたため、2023年は空き番となっている。ヤクルトではドラフト1位ルーキーの吉村貢司郎が、ロッテは吉井理人監督が今季から「21」を背負う。

現役では日本ハムが唯一、内野手の清宮幸太郎に与えており、その他の8球団は全て投手が着用。右腕4投手、左腕4投手となっており、左腕に与えられることの多い番号とも言えるだろう。

阪神では、秋山拓巳が2022年に岩田稔の引退にともない、前年まで背負った「46」に別れを告げた。西条高から入団して7年間は「27」を背負い、2度目の背番号変更となる。これまで益山性旭や遠山昭治、吉野誠、岩田稔ら左腕が多かった阪神の「21」を自分色に染めたい。

巨人では高橋一三が1967年に背負い、左腕エースに与えられることが多くなった。高橋一三以降の左腕では宮本和知、高橋尚成、吉川光夫らが背負い、右腕では加藤初、趙成珉、木佐貫洋、岩隈久志が着用。その後、2021年からFAで加入した井納翔一が受け継ぎ、2023年から空き番となっている。

次章以降では、背番号「21」の系譜や着用していた歴代の名選手たちを紹介していく。

親会社が変わってもエースの系譜は続く

南海ホークスの大エースとして活躍した杉浦忠。立教大学時代は長嶋茂雄(巨人)とともにプレーし、1958年に南海へ入団すると背番号「21」を与えられた。この年、杉浦は27勝12敗、防御率2.05の成績を残し新人王を受賞する。

翌1959年には38勝4敗と圧倒的な勝率でMVPに輝き、チームの優勝に貢献。日本シリーズでは4連投4連勝とまさに大車輪の活躍をみせ、MVPに輝いた。日本シリーズ4連投4連勝は今後、破られることのない不滅の大記録と言っていいだろう。

杉浦は1970年までに187勝106敗の成績を残し、現役を引退。その後、1986年から1989年までは南海(1989年はダイエー)の監督も務めている。監督として実績を残すことはできなかったものの、競技者表彰で1995年に野球殿堂入りも果たした。

この杉浦以降、親会社がダイエー、ソフトバンクと変わっても工藤公康、和田毅らエース級の選手に背番号「21」が与えられている。千賀滉大、岩嵜翔と受け継がれ、2016年シーズンにメジャーリーグから復帰した和田が、再び「21」を背負っている。

横浜DeNAの背番号「21」

南海からダイエー、ソフトバンクと親会社が変わっても受け継がれてきた背番号「21」の系譜。ホークス同様にDeNAでも、前身球団である大洋、横浜を通じてこの番号が受け継がれている。

大洋に入団後、ロッテ、日本ハムと渡り歩き、再度チームに戻ってきた野村収は再加入時に背番号「21」を与えられた。移籍初年度に17勝を挙げ、最多勝を獲得すると5年間で47勝をマーク。その後、阪神に移籍し、通算121勝をマークした。

野村収は史上初めて12球団から勝利を挙げた投手でもある。当時は交流戦もなく、セ・パ2球団ずつ所属することで初めて達成可能となる難易度の高い記録だった。

その後、PL学園で春夏連覇を達成した野村弘樹が1988年に入団し「21」を着用。2002年の現役引退までに101勝を挙げ、左腕エースとして低迷期のチームを支えている。

2016年からは野村弘樹と同じ左腕の今永昇太がこの番号を背負い、1年目から8勝をマーク。2019年は13勝を挙げるなど、ローテーションの柱として先発陣を支えている。先輩諸氏から受け継いだ背番号「21」の系譜を途絶えさせない活躍に期待がかかる。

東尾修、渡辺智男らが背負った西武の「21」

西武も前身球団である西鉄時代から、背番号「21」はエース級の投手が多く背負ってきた。初代の背番号「21」は1950年に巨人から移籍してきた川崎徳次だ。

川崎は移籍初年度に12勝を挙げると6年連続2桁勝利を達成。1953年には24勝15敗、防御率1.98の成績で最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得。最優秀投手、ベストナインも受賞している。

その後、1969年からはドラフト1位で箕島高校から入団した東尾修が着用。1988年に現役を引退するまでに251勝をマークするなど長らくエースとして君臨した。その後は監督として西武を率い、2度のリーグ優勝を達成している。監督時代は背番号「21」ではなく「78」を着用した。

その後も、ドラフト1位で入団した渡辺智男、日本ハムから移籍してきた西崎幸広、石井貴ら有望選手に与えられており、2012年からはドラフト1位でJR東日本から入団した十亀剣が着用。2022年限りで引退するまで背負い続けた。

近鉄最後の「21」岩隈久志

近鉄最後の背番号「21」が岩隈久志だった。岩隈は1999年ドラフト5位で堀越高校から近鉄に入団した当初は、背番号「48」を背負っていた。

2001年に一軍デビューを果たし初勝利もマーク。2002年に先発ローテーションに入って8勝を挙げると、翌2003年からは背番号「21」に変更。2年連続15勝をマークするなど球界を代表する投手となった。

近鉄が消滅し、楽天に移籍した2005年以降も引き続き「21」を着用。故障に苦しみながらも2008年に復活し、21勝4敗、防御率1.87の好成績で最多勝、最優秀防御率、最高勝率のタイトルを獲得した。チームは5位ながらMVPも受賞。優勝チーム以外からMVPが選ばれたのは1994年のイチロー(オリックス)以来14年ぶり、Bクラスのチームからの選出は1988年の門田博光(南海)以来20年ぶりだった。

所属球団以外を見るとアテネオリンピック、第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表としてプレーしたが、その際は背番号「20」を着用した。2012年から所属したMLBシアトルマリナーズでは背番号「18」を背負っていたが、2019年に巨人移籍してからは愛着のある「21」に復帰。ただ、巨人では一軍登板できないまま、2020年限りでユニフォームを脱いだ。

楽天では岩隈移籍後の背番号「21」は釜田佳直が受け継ぎ、2021年からはドラフトで4球団競合した左腕・早川隆久が背負っている。

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