1985年:横田久則が西武6位でプロ入り
今年もドラフト会議が近付いてきた。プロ志望届を提出している高校生や大学生は気が気ではないだろう。人生を左右する「運命の一日」は、1位で希望球団に指名された選手から指名漏れした選手まで、残酷なまでのコントラストを描く。
しかし、プロに入れば横一線だ。指名漏れの悔しさを忘れず大学や社会人に進んでプロ入りを果たした選手がいれば、下位指名からスターダムを駆け上がった選手もいる。1980年代後半にドラフト下位指名からブレイクした選手を振り返りたい。
1985年の最大の目玉は、PL学園の桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」だった。桑田は早稲田大進学を表明しており、各球団が指名を回避したが、巨人だけが強行指名。一方、巨人を熱望していた清原は涙を流した。結局、清原は6球団が1位指名し、抽選の結果、西武が交渉権を獲得し入団に至った。
そのほかの指名では、日本ハムが3位で都城高・田中幸雄を獲得。田中は日本ハム生え抜き選手としては史上初の2000安打を達成した。
下位指名から活躍をした選手には、西武から6位指名を受けた那賀高の右腕・横田久則がいる。横田は入団2年目の1987年に5勝を挙げたものの、故障で以降3年間は登板できなかった。しかし、1991年に中継ぎとして24試合に登板し2勝2敗、防御率3.02をマーク。その後、ロッテ、阪神とわたり歩き台湾球界に移籍した。台湾リーグでは1年目に16勝で最多勝を獲得している。
1986年:女性ファンに人気絶大の緒方耕一が巨人入り
史上初めて12球団全てがドラフト1位で投手を指名した1986年ドラフト会議。目玉は愛知・享栄高のエース近藤真一だった。5球団が近藤に入札し、中日が交渉権を獲得。入団後はデビュー戦の巨人戦で史上初となるノーヒットノーランを達成する快挙で話題をさらった。
そのほかの1位指名では、後に「トレンディーエース」と呼ばれる亜細亜大・阿波野秀幸(近鉄)、愛知工大・西崎幸広(日本ハム)がプロ入り。広島の緒方孝市前監督も同年のドラフト3位で鳥栖高からプロ入りを果たしている。
下位指名から実績を残した選手では、巨人が6位で指名した緒方耕一が挙げられる。高校野球の名門・熊本工からプロ入りし、3年目の1989年に一軍デビュー。翌1990年にレギュラーを獲得すると33盗塁をマークして盗塁王に輝いた。
アキレス腱の故障もあって1991年から出番が減少するが、1993年に復活。24盗塁で再び盗塁王に輝いている。端正なマスクで女性ファンからの人気も絶大だった。
1987年:吉永幸一郎がダイエーから5位指名
1987年ドラフト会議の目玉は、長嶋茂雄の息子である立教大・長嶋一茂だった。ヤクルトと大洋の2球団が指名し、抽選の末にヤクルトが交渉権を獲得した。
そのほかにはPL学園・立浪和義に中日と南海の2球団が入札。当たりくじを引いた中日へ入団が決まり、高卒1年目から新人王を獲得する活躍を見せた。その後も中日一筋で22年間プレーし、2480安打をマーク。NPB歴代最多の487二塁打を放つなど名を残し、現在は監督を務めている。
この年の下位指名では、ダイエーに5位指名された東海大工・吉永幸一郎がいる。吉永は1992年にレギュラーを獲得すると、コンスタントに3割近い打率を記録。1997年には打率.300、29本塁打をマークした。2001年から巨人に移籍し、2003年現役を引退。通算1057安打、153本塁打の成績を残した。
1988年:広島5位でスラッガー江藤智
目玉がおらず、人気の割れた1988年ドラフト会議。津久見高・川崎憲次郎、プリンスホテル・中島輝士、日立製作所・酒井勉の3選手に各2球団が入札した。川崎はヤクルト、中島は日本ハム、酒井はオリックスがそれぞれ交渉権を獲得している。
同年のドラフト会議で最も指名が重複したのは、2位指名の高知商・岡幸俊だった。当時は1位だけでなく、その他の順位でも一斉入札方式がとられており、2位の岡に5球団が重複したのだ。
この抽選で当たりくじを引いたのは、1位でも川崎を引き当てたヤクルト。しかし、岡は故障もあって1勝も挙げることができずに現役を引退している。
そのほか、1位では駒澤大・野村謙二郎(広島)、大阪桐蔭高・今中慎二(中日)、江の川高・谷繁元信(大洋)らがプロ入りし、入団後に活躍した。
一方、下位指名で目を引くのは広島が5位指名した関東高・江藤智だ。捕手として入団したが、3年目の1991年に内野手へ転向し、初めて年間通して出場した1993年には本塁打王に輝いた。1995年には本塁打王、打点王の二冠王に輝き、リーグを代表する長距離ヒッターとなった。
1999年オフにFA権を行使して巨人に移籍し、6年間プレー。2006年からはFAで巨人入りした豊田清の人的補償として西武に移籍し、2009年に現役を引退した。通算364本塁打をマークしている。
1989年:下位指名からメジャーリーガー誕生
新日鉄堺の剛腕・野茂英雄に史上最多となる8球団が重複した1989年ドラフト会議。抽選の末に近鉄が野茂の交渉権を獲得した。この年はほかにも名選手が多く誕生している。
1位ではNTT中国・佐々岡真司(広島)、NTT東京・与田剛(中日)、東北福祉大・佐々木主浩(大洋)、松下電器・潮崎哲也(西武)、早稲田大・小宮山悟(ロッテ)が名を連ねた。2位以下でもトヨタ自動車・古田敦也(ヤクルト2位)、熊本工・前田智徳(広島4位)らがプロ入りしている。
上位指名が大豊作だった1989年のドラフト会議だが、下位指名からもメジャーリーガーが誕生している。阪神が5位で指名した西日本短大付高・新庄剛志だ。2年目の1991年に一軍デビューすると、翌1992年には95試合に出場。ヤクルトと激しい優勝争いの中、打率.278(353打数98安打)、11本塁打をマークし、亀山努とともに「亀新フィーバー」を巻き起こした。
以降2000年まで阪神で活躍し、同年オフにFA宣言してメッツに移籍。2001年から3年間メジャーリーグでプレーした。2004年から2006年までは日本ハムで北の大地を沸かせ、パ・リーグを盛り上げた。
数々のパフォーマンスでファンをつかみ、現在も日本ハムの「ビッグボス」としてメディアに引っ張りだこの新庄もドラフトでは5位指名。プロ入り時の評価は、必ずしもプロ入り後の活躍に比例しない好例だろう。
【関連記事】
・野茂英雄に8球団競合した1989年ドラフトの答え合わせ、外れ1位の成績は?
・空前の大豊作だった1968年ドラフト会議の答え合わせ、7人が名球会入り
・堀内恒夫が指名された1965年第1回ドラフト会議の答え合わせ、一番出世は?