初代監督は三宅大輔
2022年、オリックスはシーズン最終盤までソフトバンクと熾烈な優勝争いを繰り広げ、最終戦で勝利しリーグ連覇を成し遂げた。さらに、2年連続ヤクルトとの対戦となった日本シリーズでは、4勝2敗1分けで前年の雪辱を果たし、26年ぶりの日本一に輝いた。
指揮を執った中嶋聡監督は就任してから2年連続リーグ優勝、そして2年目には日本一を達成。早くも球団史に残る名将の仲間入りを果たしたと言っても過言ではないだろう。では、過去オリックスはどのような監督がチームを率いてきたのだろうか。前身球団を含めて歴代監督とその成績を振り返る。
1936年に阪急を親会社とする阪急軍として球団が発足し、初代監督には三宅大輔が就任した。初年度は28勝19敗1分け、翌37年春も28勝26敗1分けで勝ち越すも解任の憂き目に。後任として村上実が秋季の指揮を執ったが、17勝29敗3分けで8球団中7位に終わった。
1938年、山下実が選手兼任で新監督に就任。春、秋ともに3位に入り、翌39年も上位進出が期待されたがシーズン途中で解任された。後任として村上が2度目の監督に就任し、シーズン3位と好成績を収めたが、この年限りで村上も解任されている。
1940年、選手兼任で井野川利春が新指揮官に就任。1年目に3位、翌41年には球団初の2位に入った。井野川は42年まで指揮を執り、翌43年に応召された。後任として西村正夫が選手兼任で監督に就任。47年まで務め、44年の3位が最高成績だった。なお、戦後の46年からは球団名を「阪急ブレーブス」に改称している。
1948年、浜崎真二が選手兼任で新監督に就任。前年にプロ野球選手として史上最年長の45歳で入団した浜崎は、50年に当時のプロ野球最年長記録となる48歳10か月で試合に出場していた。監督としては53年まで6年間務め、2位を2度記録した。54年からは西村が2度目の監督として56年まで指揮を執ったが、またしても3位が最高順位だった。
1957年、巨人などで監督を務めた藤本定義が新監督の座に就いた。1年目、2年目ともに勝ち越し、4位、3位と順調に成績を上げたが、3年目の59年は前半戦に低迷したこともあり、シーズン途中で辞任。打撃コーチだった戸倉勝城が監督に昇格するも、この年は5位に終わっている。戸倉はそのまま62年まで指揮を執ったが、最高成績は4位だった。
西本幸雄と上田利治が黄金時代築く
1963年、前年一軍コーチを務めていた西本幸雄が監督に昇格。大毎(現ロッテ)時代の60年に監督就任1年目にしてリーグ優勝に導いたが、阪急では6位、2位、4位、5位と苦戦が続いた。66年には監督の信任投票事件が起き西本は辞意を示したが、小林米三オーナーに説得され、続投した。
迎えた67年、投打がかみ合い球団創設32年目にして初優勝を成し遂げた。これを皮切りにリーグ3連覇を達成。70年は4位だったが、71年、72年にも連覇を達成し、黄金時代を築いた。ただ、5度出場した日本シリーズではいずれも敗れている。西本監督は73年まで指揮を執り、同年限りで辞任した。
1974年、上田利治が37歳の若さで監督に就任。1年目は前期優勝もプレーオフでロッテに敗退。翌75年、チームは再び前期優勝を飾ると、プレーオフでは西本前監督率いる近鉄を3勝1敗で下し、3年ぶりのリーグ制覇を達成。広島との日本シリーズでは4勝2分けと圧勝し、ついに日本一を成し遂げた。
76年には前後期ともに制し完全優勝を飾った。日本シリーズでは4年ぶりに巨人と対戦し、4勝3敗で連覇を達成。さらに、77年にも前期優勝、プレーオフを制し、日本シリーズに進出すると、再び巨人と対戦し4勝1敗で3年連続の日本一に輝いた。
翌78年は前後期ともに優勝し4年連続9度目のリーグ優勝。しかし、ヤクルトとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れ、V4はならなかった。上田監督はこのシリーズの第7戦で本塁打の判定を巡り猛抗議し、混乱を招いた責任を取る形でシリーズ終了後に監督を退いている。
1979年、梶本隆夫が新監督に就任。日本一奪回を目指したがプレーオフで近鉄に敗れリーグ優勝は4年連続で途絶えた。翌80年は前期4位、後期5位の通算5位に沈み、この年限りで監督を退任した。
1981年、上田が監督に復帰する。1年目は前期3位、後期2位で通算2位。翌82年は山田久志が通算200勝を達成し、83年には福本豊が当時の世界新記録となる939盗塁に2000本安打の大記録を樹立したが、チームは2位に終わっている。
迎えた84年、“史上最強助っ人”ブーマー・ウエルズが打率.355、37本塁打、130打点で外国人選手として初の三冠王に輝く活躍を見せ、6年ぶりのリーグ優勝を果たした。しかし広島との日本シリーズに敗れ、7年ぶりの日本一には届かなかった。
そして、88年のシーズン途中、当時のオリエントリース(現オリックス)への球団譲渡が発表。翌89年はオリックス・ブレーブスとして初のペナントレースに臨み、2位に入った。上田は90年も指揮を執り、「ブルーサンダー打線」を構築したが、ゲーム差なしの2位と惜しくも優勝には届かず、同年限りで辞任している。
球団名が「オリックス・ブルーウェーブ」に、本拠地が西宮球場からグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)へと移転した1991年。上田の後任として巨人V9時代に名二塁手として活躍した土井正三が新監督に就任した。コーチとしての指導力は高く評価されていたが、監督としては3年連続3位とAクラスには入るものの優勝争いには絡めなかったため、93年限りで退任している。
仰木彬がオリックス初優勝&日本一達成
1994年、仰木彬が監督に就任した。「仰木マジック」で近鉄を優勝に導いた知将は、オリックスでもイチローを見出し、「パンチ佐藤」こと佐藤和弘とともに売り出すなど若手を抜擢。初年度から2位に入った。
しかし、翌95年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生。一時は神戸での試合開催も危ぶまれたが、「がんばろうKOBE」を合言葉に一致団結したチームは、オリックスとして初のリーグ優勝を達成した。日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れたが、被災地でともに戦う選手たちの姿は感動を呼んだ。
そして、翌96年にはリーグ連覇を達成。日本シリーズでは長嶋茂雄監督率いる巨人と対戦し、4勝1敗で初の日本一にも輝いた。その後、仰木は99年まで6年連続でAクラス入りを果たしたが、2000年、2001年と2年連続で4位に終わったため、同年限りで退任した。
2002年、仰木の後任として西武黄金時代のチームリーダーだった石毛宏典が新監督に就任。しかし、1年目は貧打に悩み、球団では39年ぶり、オリックスでは初の最下位に終わった。翌03年は新外国人やトレードで山崎武司を獲得するなど打線のテコ入れを図ったが開幕から低迷し、4月23日に監督を解任された。
後任には打撃コーチを務めていたレオン・リーが昇格。打撃重視の野球スタイル前面に押し出したが、守備面では精彩を欠き、前身の阪急時代を含めて球団史上最低勝率を更新(.353)して最下位に沈んだ。レオン・リーもこの年限りで監督を解任されている。
2004年、前年まで西武の監督を務めていた伊原春樹を招聘。2年連続最下位のチーム再建を託したが、この年も投手陣が崩壊し、またしても最下位に終わった。また、シーズン中にはプロ野球再編問題が浮上し、オフには近鉄バファローズとの合併が発表。伊原は変則の3年契約を結んでいたが、このあおりを受けわずか1年で退任することとなった。
新生「オリックス・バファローズ」元年となった2005年、合併した両球団で監督経験のある仰木が指揮官の座に就いた。仰木は就任時から闘病生活を送っていたが、「グラウンドで倒れたら本望」と病を抱えながら指揮を執った。チームは最後までAクラスを争ったが、最終的に4位でシーズンを終え、仰木は健康状態を理由に退任。12月15日に肺がんによる呼吸不全のため、帰らぬ人となった。
2006年、前年までGMを務めていた中村勝広が新監督に就任。巨人を自由契約となった清原和博、日本球界復帰を目指していた中村紀洋を獲得するなど積極的な補強を行うもチーム成績は振るわず、5位に終わった。中村はこの年限りで監督を辞任している。
バファローズとして初のリーグ優勝、日本一
2007年、メジャーのアストロズとエンゼルスで監督を務めたテリー・コリンズが新監督に就任した。03年のレオン・リー以来3年ぶりの外国人指揮官となったが、低迷しているチームを立て直すことはできず、1年目は最下位。2年目もシーズン序盤から下位に沈み5月21日の試合後に監督を辞任した。
後任として一軍ヘッドコーチを務めていた大石大二郎が監督代行として指揮を執り、その後チームは持ち直したため、8月1日に大石は正式に監督に昇格。最終的に7年ぶりのシーズン勝ち越し(バファローズとしては初)を決め2位に入り、初のクライマックスシリーズ(CS)に進出した。CSでは第1ステージで日本ハムに敗れている。
この好成績を受けて、翌09年は13年ぶりの優勝の期待も高まったが、主力選手の多くがケガで離脱した影響もあり、2年ぶりの最下位に沈んだ。大石は不振の責任を取る形で、同年限りで解任されている。
2010年、岡田彰布が監督に就任。現役時代は阪神の中軸を担い球団初の日本一、監督としてもリーグ優勝を経験した岡田は、前年最下位チームの再建を託された。しかし、3年間指揮を執り全てBクラスで最高順位が4位と振るわず。最終年に最下位が確定すると、シーズン途中で休養となった。森脇浩司が監督代行として残りのシーズンを戦った。
2013年、森脇が正式に監督へ就任した。1年目は5位に終わるが、2年目の14年には首位とゲーム差なしの2位に入り、6年ぶりのCSへ進出。ただ、CSでは3位の日本ハムに敗れた。15年は中島裕之、小谷野栄一ら大型補強を行ったが、開幕から低迷し、森脇監督はシーズン途中で休養。ヘッドコーチの福良淳一が監督代行を務めた。
2016年、福良が正式に監督へ昇格。同郷の西村徳文をヘッドコーチとして招聘するも、成績は4年ぶりの最下位に終わった。2年目は4位、3年目も4位と3年連続Bクラスに終わったため、18年限りで退任した。
2019年からは西村が監督に就任。ロッテ監督時代の2010年に監督1年目にして日本一を達成した経験を持ち、その手腕に期待は大きかったが、1年目は3年ぶりの最下位に終わった。翌20年も最下位に低迷し、8月20日の西武戦後に監督を辞任。二軍監督だった中嶋聡が監督代行を務めた。
そして2021年から中嶋が正式に新監督へ就任。この年から2年連続リーグ制覇、26年ぶりの日本一を成し遂げたのは前述した通りだ。22年のオフにはチームの主軸の吉田正尚がメジャー挑戦を発表。西武から森友哉をFA補強するなど、チームの刷新が推し進められる中、23年はどのようなチームを作り上げるのだろうか。中嶋監督の手腕に注目だ。
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