巨人から6人出場した1992年オールスター
1992年のオールスター第3戦終了後、ヤクルト・野村克也監督がこうボヤいた。
「ウチにあんな選手おるか?うらやましいわ」
活躍した選手を指しての発言ではない。4番・指名打者で先発出場し、2打数無安打に終わった巨人・原辰徳のある行動に感銘を受けたというのだ。ちなみに原にとって、この試合が最後のオールスター出場となった。
巨人から出場したのは桑田真澄、槙原寛己、大久保博元、岡崎郁、駒田徳広、そして原の6選手。大勢選ばれてはいるが、ベンチで大きな顔はできなかったのではないか。89、90年と連覇を果たした巨人も前年(91年)は広島の優勝を許したばかりか、Bクラス(4位)に沈み、ベンチに藤田元司監督の姿はない。“巨人1強”の時代はすでに終わり、野村ヤクルトの時代が幕を開けようとしていた。
どの球団も巨人に対する敵対心の強さは今とは比べものにならず、オールスターであっても“巨人の自由にはさせない”という思いが強かった。それだけに、巨人の選手は他球団の選手とあまり交わらず、一箇所に固まっていたように記憶している。
「やっぱり巨人は侮れんよ」
そんな中で迎えた第3戦。オールスター史上初の地方開催となった宮城で、駒田が躍動した。5番・右翼(途中から一塁)で先発出場すると、8回に同点ソロを放つなど4打数2安打1打点の活躍で勝利に貢献し、MVPに輝いた。そんな後輩に原は「おい、コマ!監督もテレビを見て喜んでるぞ」と笑顔で声をかけたそうだ。
試合後は「そんなこと言ったかな?」とトボけていたが、まるでドラマのようなセリフを照れることなくサラッと口にできてしまうのが原だ。これを野村監督は興味深く見守っていた。
「『監督もテレビを見て喜んでるぞ』なんて言えるか、普通? 藤田さんは幸せだよ。ウチにはあんなことを言ってくれる選手は1人もおらんよ。うらやましいわ。原はね、礼儀正しいし、いいリーダーなんだろうね。やっぱり巨人は侮れんよ」。野村監督は心底うらやましそうな表情でそう話した。
ヤクルト監督就任1年目の90年は5位に沈み、翌91年は3位。「野村ID野球」が少しずつ実り始めていたとはいえ、まだまだ改革も半ばの時期だ。選手からの信頼を完全に勝ち取っていたわけではない。
それだけに原の言動に触れて、藤田監督をうらやましく思ったのは本音だろう。同時に巨人は監督を中心にしっかりまとまったチームだと判断し、より警戒感を強めた。
オールスター直後の巨人戦で3連勝
野村監督は「オールスターのベンチは観察の場」と話したことがある。この年、ヤクルトはオールスター折り返しの時点で首位・巨人に1.5ゲーム差の3位。直接対決は6連敗中で、前半戦の対戦成績は5勝9敗だ。
オールスター明けはいきなり巨人戦が組まれている。悲願の優勝を果たすためには、何としても巨人を叩いておきたいところ。初めてセ・リーグのベンチに入った野村監督は、巨人主力6選手のベンチでの振る舞いや言動に目と耳を総動員していたはずだ。
そんな努力が実ったのだろうか。オールスター直後、巨人に3タテを食らわせて一気に首位固めに入る。その後は阪神を加えた三つ巴の争いを制し、野村監督就任3年目、ヤクルトはついに優勝を果たした。
今年のオールスター(26日=PayPayドーム、27日=松山)の主役は、もちろんロッテの佐々木朗希。それは分かっているが、セ・リーグは2位から5位、パ・リーグは首位から5位まで大混戦となっているのだから、夢舞台を「観察の場」と位置付ける監督や選手がいてもいい。
《ライタープロフィール》
松下知生(まつした・ともお)愛知県出身。1988年4月に東京スポーツ新聞社に入社し、プロ野球担当として長く読売ジャイアンツを取材。デスクなどを務めた後、2021年6月に退社。現在はフリーライター。
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