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人を遺した野村克也が私の胸に残した笑顔とボヤキと最高の思い出

2021 12/11 20:00山田ジョーンズ
「野村克也をしのぶ会」の祭壇,ⒸSPAIA
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ⒸSPAIA

神宮球場で「野村克也をしのぶ会」

南海・ヤクルト・阪神・楽天の監督を歴任した故・野村克也氏は2020年2月11日に亡くなった(享年84歳)。故人をしのぶ会が12月11日、神宮球場で行われた。教え子の江本孟紀氏、古田敦也氏、高津臣吾監督(ヤクルト)が弔辞を読み、矢野燿大監督(阪神)、BIGBOSS新庄剛志監督(日本ハム)らが参列して献花した。

筆者は長年、野村克也氏を取材してきた。数々の思い出の中からほんの一部を記し、敬愛する「監督」へのレクイエムとしたい。

サッチーへのグチ

プロローグはいつもサッチーに対するグチから始まった。「ワシはあいつのために南海と阪神をクビになったんや」

楽天監督退任後、しばらくしてから都内ホテルでのロングインタビュー。40分間のグチを含めた制限時間の2時間きっかりになるとノムさん(野村克也)のガラケーが鳴る。「ほら見ろよ、早く終われって催促だぞ」。ディスプレイには「サッチー」の文字。

次の取材日、試しに言ってみた。「監督(退任後もそう呼んでいた)、でも奥様を大切になさっていますよね。で、きょうのインタビューなんですが……」「そうかお前、ワシの話が聞けんというのだな!」。グチはやはり40分間続いた。

「生」への執着心、不死身の「カメ理論」

ノムさんは60歳を越えても実によく食べた。幼少時代に父を亡くし、極貧状態が続いたと聞いた。食べることは、すなわち「生きること」だった。

デザートには大好物のキンツバだ。運動はしなかった。「カメは動かないから長生きする」が持論だった。74歳で楽天監督を退任してからも、しばらくはプロ球団監督就任に意欲を見せていた。

沙知代夫人は2017年に死去したが、当時82歳のノムさんは「もうワシは生きている気力がない。いつお迎えが来るのかのう」。記者が答えに窮する発言でおどかすのを一つの楽しみにしていたようだが、「危機管理は最悪のことから考える」というネガティブ発言はいつものこと。ノムさんを不死身だと信じて疑わなかった。

しかし、発言の内容は変化していった。興がのると「お前、好きな女性のタイプは?」と言っていたのが、「なあ、ワシは成功者と言えるのかのう?」「テスト生から三冠王、日本一監督になった方が成功者でなかったら誰を成功者と言うんですか」

のちにこんな発言も伝え聞いた。「沙知代をみんな悪妻だったと言うが、それは亭主であるワシが決めることだ」

人を遺すを上とする

2019年7月のヤクルト球団設立50周年記念OB戦、ユニフォームで代打に立ち、雄姿をファンに披露した。20年1月、ヤクルトOB会に初出席。「高津臣吾監督、私に用事はないですか? ヘッドコーチ、喜んで引き受けますよ」。ノムラ節で会場をわかせた。いま思えばノムさんは、教え子に別れを告げていたのではないか。翌2月、ノムさんは旅立った。

長いユニフォーム生活の中から印象に残るシーンを訊いたことがある。「楽天監督退任時の胴上げかな。楽天ばかりか、相手の日本ハムの選手たちも合同で胴上げしてくれた。あんなこと、王や長嶋でもなかったぞ。少しはワシが野球界に遺してきたことを認めてもらえたのかなあ」。教え子の山﨑武司(楽天)、稲葉篤紀、吉井理人投手コーチ(いずれもヤクルト→日本ハム)が音頭を取った。

――財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すを上とする。

明治時代の政治家の後藤新平の発言とされる言葉をノムさんは好んで使っていた。

「空の上で南海の先輩たちと仲良くやっていますか。横にサッチーがいるでしょう」(江本)

「教え子の高津ヤクルトと矢野阪神が優勝争い。稲葉の侍ジャパンが金メダルです」(古田)

「私の役目はノムラ野球を継承していくこと。我々の野球を見守ってください」(高津)

野村克也は人を遺した。そのDNAは今後も日本球界に息づいていく。

野村克也をしのぶ会が行われた神宮球場

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