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江本孟紀氏がノムさんの突然の指令に驚いた1973年プレーオフ第5戦

2020 11/20 11:00小山宣宏
(左から)南海電気鉄道執行役員の和田真治氏、江本孟紀氏、サンケイスポーツ代表の吉川達郎氏Ⓒ小山宣宏
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Ⓒ小山宣宏

「南海ホークスメモリアルギャラリー」リニューアル会見

今年2月11日に84歳で急逝した野村克也さん(享年84歳)が、大阪球場の跡地にある「なんばパークス」(大阪市浪速区)9階の「南海ホークスメモリアルギャラリー」をリニューアルし、野村さんのバットや獲得したタイトルのトロフィーなどを展示することが11月4日に発表された。

南海ホークスOBであり、野村さんとバッテリーを組んだ野球解説者の江本孟紀氏、さらには南海電気鉄道株式会社、サンケイスポーツらが発起人として記者会見に臨み、「野村さんのすばらしさを1人でも多くの人に認識してもらいたい」と話す。

費用はクラウドファンディング(https://camp-fire.jp/)で11月11日から来年1月11日まで募集。目標金額は2000万円で、金額に応じてユニフォームなどの返礼品が贈られる。

南海での栄光があったからこそ、後の監督人生につながった

「おかえり! ノムさん 大阪球場(なんばパークス)に」プロジェクトが今月4日から始動した。

発起人を務める江本氏は、野村さんに対する思いをこう話している。

「野村さんは『ヤクルト時代が一番よかった』と周辺の人に話していたことは聞いていましたけれども、私に言わせればとんでもない。南海ホークスで栄光を築いてきた歴史があるからこそ、その後の野球人生につながっていったんです。その南海の野球史に『野村克也』の名前を刻むことが、私たち残された者の務めであると思い、このプロジェクトを立ち上げました」

「16」にまつわる不思議なエピソード

江本氏は野村さんとの思い出を語るとき、忘れられないシーンが2つあると言う。

1つは南海に移籍して、大阪球場での自主トレ初日でのこと。

球場周辺でウォーミングアップをしていると、ライトグリーンのリンカーン・コンチネンタルが球場脇に止まった。ドアが開き、ラフなスーツ姿でゆっくりと降りてきたのが、選手兼任監督だった野村さんである。

自主トレを行っていた選手全員の訓示が終わると、江本氏は野村さんに挨拶しに行った。

「東映から来た江本です。よろしくお願いします」

すると野村さんはすかさず、「とりあえずお前さんは10勝以上。頑張れよ。背番号は16でいいやろ?」

江本氏は感激した。ドラフト外で東映に入団した前年の1年目には、26試合登板して0勝4敗に終わったが、移籍した途端にいきなりエース級の扱いをしてくれたからだ。江本氏は当時のことを振り返り、「この人のために働こう」と意気に感じたと話す。

そして不思議なことに、この年は「16」という数字に縁があった。背番号16に始まり、4月16日のロッテ戦で初勝利、シーズンを通じて16勝を挙げ、年俸も160万円になった――。

まさに江本氏にとって「16」は、野村さんの言葉に導かれるかのように、この年のラッキーナンバーとなったのである。

「おい江本、行くぞ」、予想もしていなかった登板劇の裏側

もう1つは翌73年のパ・リーグのプレーオフの阪急第5戦である。

この年、南海は前期優勝を果たしたものの、後期は阪急と13試合戦って12敗1分と、まったく歯が立たなかった。だが、プレーオフでは南海は生き返り、第1戦、第3戦をとった後の第5戦では、0対0の息詰まる投手戦で迎えた9回2アウトから南海が2者連続ホームランで2点をとり、このまま南海が逃げ切ると思われた。

だが、抑えの佐藤道郎が2アウトから代打の当銀秀崇にソロホームランを打たれる。続いて後に代打で通算27本塁打の日本記録を樹立した高井保弘がネクストサークルで構えていた。

このとき江本氏はベンチにいて「この日は登板しない」と思い、帰りの支度をしていたところに、グラウンドから「おい江本、行くぞ」という野村さんの声。

これには江本氏も「えっ⁉」と驚いた。野村さんは江本氏と高井との相性を考えての決断だったというが、ブルペンで肩を作るどころか、ウォーミングアップさえもしていない。

一方で野村さんの顔は顔面蒼白だった。「万が一、阪急に同点に追いつかれでもしたら、一気に持っていかれる」、そんな危機感を抱いていたのかもしれない。

江本氏は当時の野村さんをそう見ていた。マウンドに上がると、江本氏は腹をくくった。

「とにかくコントロールなど気にせず、目いっぱい腕を振って投げることだけを考えていました」

江本氏は当時のことをこう回想する。

はたして、江本氏は高井をストレート一辺倒で攻め、最後は高めのボールを空振り三振。マウンド上で野村さんと抱き合った。そしてこれが南海ホークス最後の優勝となったのである。

来年2月14日にノムさんが“復帰”

江本氏は当時のことを振り返りつつ、こう力説した。

「南海には監督として通算1773勝を挙げた鶴岡一人さんという、金田正一さんの400勝と並ぶほどの偉大な記録を持つ名将がいた一方、野村さんの功績も同じくらい評価されるべきだと思っています。戦後初の三冠王を獲り、長嶋茂雄さんや王貞治さんに匹敵するほどの、数多くの記録を樹立した。南海が栄えある歴史を残していくことができたのも、野村さんという存在があったからだということを、私たちは決して忘れてはならないのです」

メモリアルギャラリーのリニューアルされた姿は、来年2月14日にお披露目される。懐かしい故郷にようやく舞い戻った野村さんのかつての雄姿を、多くの野球ファンに楽しんでもらいたい。

展示されている杉浦忠監督のユニフォームⒸ小山宣宏

展示されている杉浦忠監督のユニフォームⒸ小山宣宏


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