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高校野球史上2人しかいない甲子園で完全試合を達成した名投手

2021 8/18 06:00SPAIA編集部
甲子園球場Ⓒtak36lll/Shutterstock.com
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Ⓒtak36lll/Shutterstock.com

1978年センバツの前橋・松本稔が史上初

熱戦が展開されている高校野球。今大会注目の右腕、ノースアジア大明桜(秋田)の風間球打は、初戦の帯広農(北北海道)戦で7安打10奪三振2失点で完投勝利を挙げ、上々のスタートを切った。183センチの長身から投げ下ろすストレートは150キロをマークし、評判通りのポテンシャルの高さを見せた。

これまで甲子園では数々の名投手が様々な記録を残してきた。その中でも稀有なのが、春夏合わせても過去2人しか達成していない完全試合だ。

甲子園史上初の完全試合を記録したのは、1978年センバツに出場した前橋(群馬)の右腕・松本稔。1回戦の比叡山戦、カーブを低めに集めて凡打の山を築き、わずか78球で偉業を達成した。

27アウトの内訳は内野ゴロ17、内野フライ2、外野フライ3、奪三振5。大会前は決して注目度の高い存在ではなかったが、一躍時の人となった。

しかし、2回戦の福井商戦では17安打を浴びて14失点。味方のエラーもからみ、0-14で大敗を喫した。福井商はその後、決勝まで勝ち上がり準優勝している。ちなみに群馬からアベック出場となった桐生は同大会でベスト4まで進出。優勝は浜松商だった。

松本は大学を卒業後、中央(群馬)の監督に就任。1987年に甲子園出場し、立浪和義、片岡篤史、橋本清、野村弘樹らを擁して春夏連覇したPL学園に初戦敗退した。また、母校・前橋の監督に転任後は2002年センバツに出場し、九州学院(熊本)に初戦で敗れている。

1994年センバツの金沢・中野真博が2人目

史上2人目の偉業を達成したのは1994年センバツに出場した金沢(石川)の中野真博だった。

1回戦の相手は江の川(島根、現石見智翠館)。前橋・松本と同様、打たせて取る投球で99球でパーフェクトゲームをやってのけた。内訳は内野ゴロ17、内野フライ1、外野フライ3、奪三振6。2年生だった前年1993年に春夏連続出場したものの、いずれも初戦敗退した苦い経験を活かし、球史に残る1勝を挙げた。

しかし、2回戦では後にロッテで活躍する大村三郎のいたPL学園に0-4で完封負け。夏は県大会で敗れて4季連続の甲子園出場を逃した。同年センバツは智弁和歌山が初優勝している。

中野は青山学院大に進み、東都通算6勝。東芝でも野球を続け、引退後は東芝のコーチを経て、現在は母校・青学大のコーチを務めている。

1982年夏の佐賀商・新谷博はあと1人で逃す

完全試合は春のセンバツでしか達成されていないが、夏もあと1死まで迫った投手がいた。1982年の第64回選手権大会に出場した佐賀商の右腕・新谷博だ。

初戦で対戦した木造(青森)を相手に味方打線が7点の大量援護。試合が進むにつれ、注目は勝敗より、完全試合なるかどうかに移っていった。

9回2死。2ボール1ストライクから投げた97球目は打者を直撃。あと1人でまさかの死球となり、大偉業を逃した。それでも続く打者を打ち取ってノーヒットノーランは達成。偉業には違いないが、逃した魚は大きかった。

佐賀商は2回戦も東農大二(群馬)を破ったが、3回戦で津久見(大分)に敗退。後輩が全国制覇を果たすのはそれから12年後、1994年の夏だった。

新谷はヤクルトの2位指名を拒否して駒澤大に進み、日本生命を経て1991年ドラフト2位で西武入り。1994年に最優秀防御率のタイトルを獲得するなど、プロ通算54勝47敗14セーブの成績を残し、日本ハム移籍後の2001年に引退した。

引退後は日本ハムのコーチや女子日本代表監督などを経て、現在は西武ライオンズ・レディースの監督を務めている。

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