幼いころから柔道に魅せられて
宮崎県出身の井上康生は、幼い頃から柔道の道を歩んだ。父親が柔道五段の実力者ということもあり、その背中を追いかける形で柔道を始めた井上は、周囲が驚くほどの成長を遂げるようになり、若くして将来を嘱望されるようになっていった。
大学は柔道の名門である東海大学に進学して実績を積み上げ、1999年に世界選手権で金メダルを獲得するなど、名実ともに世界トップクラスの選手となった。
Ⓒゲッティイメージズ
現在、全日本男子柔道の監督を務めている井上康生氏は、選手時代も存在感抜群のスター柔道家だった。 井上康生「選手」と「監督」の功績を振り返っていきたい。
宮崎県出身の井上康生は、幼い頃から柔道の道を歩んだ。父親が柔道五段の実力者ということもあり、その背中を追いかける形で柔道を始めた井上は、周囲が驚くほどの成長を遂げるようになり、若くして将来を嘱望されるようになっていった。
大学は柔道の名門である東海大学に進学して実績を積み上げ、1999年に世界選手権で金メダルを獲得するなど、名実ともに世界トップクラスの選手となった。
2000年シドニーオリンピックの代表に選出された井上は、前年に亡くなった母親のために結果を残そうと奮闘する。
幼少期から自分の柔道を見守って支えてくれた母親のために闘った井上は、見事に金メダルを獲得。表彰の席で母親の遺影を掲げ、その結果を報告した。
このシーンは日本人だけではなく、世界中の人々の感動を誘うことになり、今でも柔道界の名シーンとして刻まれている。
2001年に自身が目標にしていた篠原信一氏に勝利するなど相変わらずの強さを誇った井上は、2004年のアテネオリンピックの代表にも100kg級で選出されることになる。
しかし、主将として活躍が期待された井上はメダルに届かず、他の選手が大活躍した中で苦い結果に終わった。
その後、不振に苦しんだ井上は2008年の北京オリンピックで雪辱を目指すも、金メダルを獲得することになる石井慧氏に代表を明け渡すことになり、その目標は叶わなかった。
2008年北京オリンピック代表を逃した井上は、現役を引退して指導者への道を目指すことになる。
スコットランドに2年間派遣されるなど、国際的な視野を持った指導者になることを期待された井上は、その期待に応えるように指導面でも才覚を発揮する。
2011年に自身が過ごした東海大学の講師兼副監督に就任し、全日本のコーチも歴任するなど、柔道界は引退後の井上にも大きな期待を寄せ続けた。
順調に指導者としての道を歩んできた井上だったが、2012年にはロンドンオリンピックで金メダル無しに終わった全日本男子の復活を期待され、監督就任を要請される。
歴代でも類を見ない大仕事となったが、積極的なコミュニケーション、科学的トレーニングや他の格闘技の研究といった、これまでにない試みで選手の強化に努めた井上監督は、2016年のリオオリンピックで金メダル2個、全階級でメダル獲得と、見事全日本男子を復活させることに成功する。
選手、監督両方の立場で結果を残した井上監督は、今後も柔道界を背負って闘っていくことになるだろう。
リオオリンピックで監督して大きな才覚を見せたことは記憶に新しい。次の東京オリンピックでも井上監督の指導力に大いに期待したい。