出場機会求めて鈴鹿ポイントゲッターズへ移籍
人生は、一瞬先でさえ予測できないから面白い。2月26日、サッカー界のレジェンド、三浦知良が55回目の誕生日を迎えた。
2005年のシーズン途中から在籍し、足かけ17年プレーした横浜FCを離れ、昨年末に鈴鹿ポイントゲッターズへ期限付きで移籍。あのカズがJ4に相当するJFLに戦いの場を移し、人口約20万人の地方都市でボールを蹴ることになるとは、少し前の本人でも想像できなかったに違いない。
決断の裏に、計り知れない苦悩と迷いがあったのは容易に想像がつく。日本サッカーが「夜明け」を迎える以前の1982年に静岡学園高を中退し、単身ブラジルへ。現地でプロ契約を結び、名門パルメイラスやサントスのトップチームでプレーする奇跡を演じた。
1990年に帰国し、3年後にJリーグが開幕。「ブーム」の中心として、Jの象徴的存在となり、日本人で初めてイタリア・セリエAでプレーする栄誉も得た。
日本代表でも不動のエース。常に荒野を切り拓くパイオニア、そして日の当たる道を歩いてきた背番号11が、プロとアマチュア混在で、練習場などハード面で不備が目立つ環境に身を置くのは、今までと比較にならない勇気が必要だったはずだ。
それでも、カズは一歩前へ踏み出した。カテゴリーを問わず、複数あった獲得オファー。選択の決め手として最優先したのが「出場機会」だった。
2018年以降、リーグ戦出場は9、3、4、1と常に1ケタ。昨年など、わずか1分しかピッチに立てなかった。時代を築いたプライドを優先するなら、せめてJ2チームに在籍して、現役生活の最終章を締めくくる選択肢もあった。
カズは違う。自分の子どものような若いプレーヤーと競争し、定位置を勝ち取り、試合に出て、ゴールを奪うことにしかモチベーションを見出せない。現役に対する究極の「こだわり」といってもいい。
「過去」を振り返る取材に…
プレーヤーへの執着心を強く感じた出来事を今も忘れることはない。カズが神戸に在籍した2005年2月。高知・春野でキャンプを張るチーム宿舎に、カメラマンとアポなしで向かった。
取材の翌日が、ドイツW杯アジア最終予選の北朝鮮戦。「ドーハの悲劇」で知られる1993年のアメリカW杯アジア最終予選の同じカードで、カズは2得点を決めていた。そのとき、現地の新聞が「KING KAZU」の見出しとともに、エースストライカーの活躍を紹介。今も使われる代名詞は、海外のメディアによって作られていたのだ。
カメラマンは当時の新聞コピーを持参。宿舎ロビーの一角に、カズの「昔日」を振り返る資料をいくつか置き、代表戦の煽り記事になるようなエピソードを掘り起こす準備をして主役の登場を待った。そして、広報に伴われ、現れたカズの顔は明らかにいつもと違っていた。
「何、これ?取材だって聞いたから来たのに、昔の話をするの?オレ、そういうの嫌だよ。まだ現役でやってるんだから、振り返るのはおかしいでしょ。違う?」
あまりの剣幕、いや迫力に反論などできるはずもない。しどろもどろで言い訳じみた言葉を口にする記者に、こう言い残して立ち去った。
「オレだって、まだ代表を狙ってるんだし、こういう企画はおかしいよ」。その時点で、カズが最後に日本代表へ招集されたのは2000年。担当した3年間で、唯一耳にした怒声が「いつでも代表に入るつもりでやってるよ」の決まり言葉に、リアリティと本気度を与えた。
決まり文句は「きょうは1面?」
取材の翌日、グラウンドへ足を運び、改めて非礼を詫びた。いつものスマイルを浮かべ、続けた言葉がカズらしい。
「やっぱり昨日、取材受けた方が良かったかなあ。そしたら、扱いが大きくなったでしょ?」。もちろん、本心でないにしても、相手を気遣う姿勢がうれしかった。
取材の最後に、「きょうは1面?」と聞くのが決まり文句。拙い質問にも嫌な顔一つせず、常に紙面の向こうにいるサポーターを意識したコメントを発する姿勢は今も変わらない。
新天地で切るプロ37年目のスタート。荒れたピッチの上に、獲物に飢えた狼の目をした背番号11がいる。
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