ミュンヘン五輪出場後にプロ転向したスター
受けた衝撃は、今も忘れられない。22年前のある日、カーラジオから流れてきたアナウンサーの声に、思わず声にならない声が出た。
「今、入ってきたニュースによると、元プロレスラーのジャンボ鶴田さんが亡くなったようです…」。強さの象徴だった男から最も遠い「死」のイメージ。しばらく思考が追いつかず、リングを暴れる全盛期の姿が脳裏を駆け巡った。
2000年5月13日、一時代を築いたジャンボ鶴田こと鶴田友美さんが渡航先のフィリピンで亡くなってから22年が経った。92年11月にB型肝炎を発症し、レスラーとしての一線からリタイア。99年2月に現役を退き、長年の夢だった米国留学を実現させた。
「人生はチャレンジだ」。引退会見で口にした言葉を実行に移した矢先。「第2のリング」で王者を目指した道の半ばで、病魔に倒れた。
戦後すぐに始まった日本のプロレス史で、ジャンボ鶴田こそ日本人最強という声は今も根強い。196センチ、125キロ(全盛期)の肉体は、終生のライバルだったスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ(故人)と比較しても、全く見劣りがしない。
それほどの巨体でありながら、ドロップキックやジャンピング・ニーパッドなどの跳躍技は、ジュニアヘビー級の選手以上の打点を誇った。高校時代はバスケット部に所属。持って生まれた運動能力と異種目で得た経験は、リングでも生かされていた。
中大入学後に始めたレスリングで、72年ミュンヘン五輪にグレコローマン最重量級の日本代表として出場。「金看板」をひっさげ、同年10月に全日本プロレスの門を叩いた。プロ野球に例えるなら、数球団競合の末に入団したドラフト1位。そして2軍の下積みを全く経験することなく、スター街道を突き進んだ。
三沢光晴らとの激しいファイトでファン魅了
ただ、恵まれた肉体、スケールの大きなファイトスタイル、無尽蔵のスタミナを誇りながら、ファンの支持を得るまでには時間がかかった。レスラーとして完全無欠ゆえ、感情移入できない皮肉…。ジャイアント馬場の後継者という安定した「立場」も、屈折したプロレスファンの嫌悪感を招いた。
そして、当時世界最高峰と言われたNWA王座に手が届きそうで届かなかった勝負弱さ…。なかなか真のエースになれず、30代はレスラーとしての転換点に立っていた。
ジャンボ鶴田の強さが本当の意味で認知されたのは、1990年に始まった超世代軍との抗争だった。直前にライバルの天龍源一郎ら多くの選手が全日本から大量離脱。カードが組めないほどの危機的状況の中、苦肉の策として、当時の若手だった三沢光晴(故人)、川田利明、小橋健太(現建太)、菊地毅と連日、激しいファイトを繰り広げ、それが熱狂的な声援を集めた。
鶴田と4人では、体格も、実力も、経験も、プロレスラーの「格」も明らかに違う。ファンは容赦なく若手を叩きつぶす鶴田の強さに驚嘆し、やられてもやられても向かっていく4人の姿にカタルシスを感じた。
最大のピンチを一大ブームに変えた抗争の期間は約2年。ジャンボ鶴田という不世出の男が支持を得た期間としては、あまりに短すぎた。
「23回忌追善興行」に天龍源一郎やスタン・ハンセン来場
振り返ると、リングの上にいるジャンボ鶴田は、誰よりもプロレスラーを体現していた。絶対に周囲にいないような体格の人間が、常人に真似のできない動きで観客を魅了し、涼しい顔で60分フルタイムの勝負を演じる。
リングの外も含め24時間レスラーだったアントニオ猪木のような狂気はなくても、「あんなことはできない」「絶対にかなわない」と抱かせる幻想が依然として根強い「最強論」の根底にある。
彼の全盛期から四半世紀経った今、全体的に小型化し、体操競技のようなアクロバチックな技が主流の現代のプロレスは、ジャンボ鶴田と同じような驚きや畏怖を会場に届けているだろうか。
今月31日、東京・後楽園ホールで「ジャンボ鶴田23回忌追善興行」が開催される。タッグパートナーを務めた渕正信や谷津嘉章、周囲が対戦を熱望するも叶わなかった藤波辰爾らがリングで試合をする一方、天龍源一郎氏やスタン・ハンセン氏、超世代軍の一員だった川田利明氏や小橋建太氏らがゲストで来場する。
リングを離れれば常識人で、物静かだった鶴田さんも、きっと天国からイベントを見ているはずだ。あの人懐っこい笑顔を浮かべて――。
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