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アイルトン・セナも敵わず アラン・プロストが唯一スピードを求めたフランスGP

2019 6/29 11:00河村大志
1993年のアランプロストⒸゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

今年のフランスGPを見て

先週行われたF1フランスGP。このグランプリでルイス・ハミルトンは異次元の強さを証明した。

スタートを難なく決め、2位のボッタスに対し差を広げていく。終盤ハミルトンのフロントタイヤにブリスター(タイヤの温度が上昇し過ぎて表面に気泡ができる現象のことで、ブリスターができると性能が落ち、グリップ不足に陥る)が発生するも、周回ごとにファステストラップを塗り替えていった。

最終盤にセバスチャン・ベッテルがファステストラップの1ポイントを獲得するために新品のソフトタイヤに履き替える。結局、ベッテルがファステストラップを記録したのだが、ハミルトンはブリスターができたタイヤでベッテルのファステストを阻止しようとしていた。新品のタイヤでファステストラップを記録したベッテルとタイヤにブリスターが出ていたハミルトンとのタイム差はわずか0.024秒だった。

この「異次元」なパフォーマンスに誰もが驚かされたわけだが、常にファステストラップを更新しながらも、タイヤマネージメントを行なっていたことが結果的に消費したタイヤでも、最速タイムを狙えた大きな理由だろう。

このハミルトンの走りを見ていると、フランスGPで圧倒的に速かったアラン・プロストを思い出す。

最強が最速になる唯一のグランプリ

フランス人ドライバーであるプロストは母国GPで13回中11回表彰台に上がっており、そのうちの6回が優勝と地元にめっぽう強かった。

プロストといえば「プロフェッサー」の異名を持ち、冷静沈着で予選より決勝に標準を合わせるスタイルが特徴だ。ライバルだったアイルトン・セナが予選で圧倒的な速さを見せるのに対し、プロストはいつも2位、もしくはセカンドローが多かった。それはレースで勝てればいいというプロストの考えで、予選さえも決勝のセットアップのための時間だったからだ。

しかし、それはフランスGP以外での話である。プロストの母国GPにかける思いは並々ならぬものがあった。いつもセナが圧倒している予選もフランスのポールポジションだけは絶対に譲らなかった。

予選だけでなく、フリー走行でセナがトップタイムを記録しても、すぐさま記録を塗り替えるほどだった。そう、「プロフェッサー」が母国GPだけはひたすら最速を求めていたのだ。ゆえにフランスでセナは1勝もできなかった。

1991年は所属するフェラーリの戦闘力が低く、ライバル達に太刀打ちできない厳しいシーズンだった。さらに新しいサーキットでの開催となった91年シーズンだったが、それでもプロストはフランスでは力強いパフォーマンスをみせた。

フランスGPでデビューしたニューマシン「フェラーリ643」を駆り、プロストはセナやマンセルを抑え予選2位を獲得。スタートでホールショットを決めたプロストはフルタンクでも、ハンドリングがいいフェラーリ643の優位性を生かしトップを走行。この年セナと最後までチャンピオン争いを行ったマンセルに抜かれるも、シーズン最高位の2位を獲得してみせた。

ラストイヤーとなった1993年は最強ウィリアムズでの母国凱旋。当時最新鋭の技術、ABS(アンチロックブレーキシステム)が不具合を起こし、決勝では使用できなかったが、横綱相撲のレースを見せ、完璧な優勝を果たした。

冷静沈着なプロストがトップチェッカーを受けた時、両手を掲げながらウィニングラップをしていた姿が印象的だった。プロストにとって、最後の母国GPはフランス人ドライバーが母国のエンジンでフランスGPを制する快挙であった。

受け継がれる「勝ち方」

フランス人で唯一ワールドチャンピオンに輝き、最も優れたドライバーの1人とされているアラン・プロスト。5度のチャンピオンに輝き、今まさに歴史を作っているルイス・ハミルトン。この二人の強さを語る上で、欠かせない人物がいる。先日この世を去った伝説的ドライバー、ニキ・ラウダだ。

プロストは1984年にチームメイトのニキ・ラウダとチャンピオン争いを繰り広げ、わずか0.5ポイント差でラウダに敗れた。

「勝てるときは勝つ」「勝つ見込みがないのであれば表彰台、ポイントを確実に狙う」「リスクは犯さない」。

このラウダのレース哲学はまさにチャンピオンになるための戦い方だった。レーサーにとって速く走ることは周りへのアピールであり、存在意義であり、プライドであり、絶対に譲れないものである。

しかし、速さだけでは「優勝する」ことはできても「チャンピオンになる」ことはできない。ラウダのレース哲学から「勝ち方」を学びとったプロストは「最速」から「最強」になり、後世に語り継がれる名ドライバーとなった。

ハミルトンに関してもメルセデスへの移籍をラウダから打診され、マクラーレンから移籍した。移籍後もハミルトンはラウダから様々なアドバイスを受け取っていたという。やはりハミルトンが「速いドライバー」から「強いドライバー」になったのはその頃からである。

これからの有望なドライバーはハミルトンの姿から「勝ち方」を学び、新たなチャンピオンとして後世に継承していくだろう。「速い」から「強い」ドライバーに昇華した者がその時代の王になることは歴史が物語っている。

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