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「浪速のロッキー」赤井英和が世界に最も近付いた七夕の夜

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1983年、母校・近大記念会館で世界タイトル挑戦

現在は俳優、タレントとして活躍する赤井英和が、かつて関西を中心に熱狂的な人気を誇るボクサーだったことを知る人が、今では少なくなっている。自慢の強打で相手を次々となぎ倒し、試合後のインタビューではユーモアを交えた受け答えで観衆を沸かせた。当時、大ヒットしていた映画に引っかけて「浪速のロッキー」と呼ばれた赤井が、世界に最も近付いたのが1983年7月7日の七夕だった。

大阪・西成の出身で中学までは札付きのワルだった赤井は、浪速高校でボクシングを始めて頭角を現し、名門・近畿大学ボクシング部でモスクワオリンピックを目指した。しかし、日本のボイコットを受けてプロ転向。デビューから12連続KOの日本記録(当時)を樹立した。

しかも12試合のうち5試合は1ラウンドKO。平均KOラウンドは2.25で、遅くとも5ラウンドまでには終わらせていた。

荒々しいファイトスタイルから生まれるド派手なノックアウトに、愛されるキャラクター。当時所属していた愛寿ジム(現グリーンツダジム)の津田博明会長の売り出し戦略がハマり、ノンタイトル戦がテレビ中継されるなど、瞬く間にスターボクサーとなった。

13戦目で知念清太郎を倒し切れず、初めて10ラウンド終了のゴングを聞いたが、続く武藤己治戦は6度目の1ラウンドKOを記録し、デビュー以来無傷の14連勝(13KO)で念願の世界初挑戦が決まった。

相手はWBC世界スーパーライト級チャンピオンのブルース・カリー(アメリカ)。会場は当時商経学部の学生だった赤井が在籍する近大記念会館だった。

KO予告した7ラウンドに痛烈KO負け

7月7日当日、先にカリーがリングに登場すると、会場に「ロッキーのテーマ」が鳴り響く。群がるファンや投げ込まれる紙テープをかき分けて赤井が登場すると、場内の盛り上がりは最高潮だ。

リングアナウンサーにコールされ、レフリーを挟んで両者が対峙すると、ようやく巡り会えた織姫と彦星のように2人は目を逸らさない。キスする気かと見まがうほどの至近距離で睨み合い、激しい火花を散らした。

1ラウンド、赤井はこれまで同様に積極的に前に出るが、足をもつれさせてスリップダウンするなど硬さがのぞく。終了間際には早くも右まぶたをカットし、長い3分間を終えた。

2ラウンド以降、チャンピオンに強打をかわされて徐々にスタミナを消耗していた赤井だが、5ラウンドに赤井の左フックでカリーが腰からストンと落ちるようにダウン。レフリーの判定はスリップで“幻のダウン”となったが、赤井のアッパー気味の左フックがカリーの顎を捉えていた。

チャンピオンをダウンさせたことで勢い付いた赤井は、6ラウンドに攻勢に出る。残り少ないエネルギーを振り絞り、ノーガードで前進。大振りの左右のパンチをヒットさせてカリーをロープに追いつめると、母校・近大記念会館は割れんばかりの大歓声に包まれた。しかし、千載一遇のチャンスをつかみながら、倒すことはできなかった。

迎えた7ラウンド。試合前の会見で「7月7日の7ラウンドにKOする」と豪語した運命のラウンドだ。6ラウンドでスタミナを使い果たした赤井は、カリーの連打を浴びて開始早々にダウン。辛くも立ち上がったものの、最後はカリーの左フックを顔面に浴びて膝から崩れ落ち、仰向けに倒れた。

世界再挑戦の直前にKO負けして引退

再起した赤井は、名トレーナーのエディ・タウンゼントを迎え入れ、それまでのラフなファイトスタイルにテクニックを加味したボクサーにモデルチェンジを試みた。再起戦から5連勝(3KO)して世界再挑戦が決定。本番前のチューンナップ試合として組まれた大和田正春戦でまさかの結末が待っていた。

1985年2月5日。序盤から大和田のパンチを浴び続けた赤井は7ラウンドでKO負けし、意識不明に陥る。救急搬送された病院で脳挫傷と診断され、開頭手術を受けた。一時は生死の境をさまよい、なんとか一命は取り留めたものの、ボクサーからの引退を余儀なくされた。

その後、阪本順治監督の映画「どついたるねん」で主演するなど、俳優、タレントとして活躍。昨年、還暦を迎え、ボクサー時代を知る人の方が少なくなった。しかし、37年前の今日、「浪速のロッキー」が世界をつかみかけた事実は、七夕の夜空に今も燦然と輝いている。

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