阪神で唯一日本一を経験した吉田義男監督【球史に名を残した偉人達】|【SPAIA】スパイア

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阪神で唯一日本一を経験した吉田義男監督【球史に名を残した偉人達】


「牛若丸」と呼ばれた現役時代

吉田義男選手は、1953年に大阪タイガース(阪神)へ入団し、ルーキーイヤーから128試合に出場する。打率.267、2本塁打、34打点、22盗塁の成績を残し、入団1年目から内野の要である遊撃手のポジションのレギュラーを奪取した。翌1954年には51盗塁で盗塁王を獲得した後は、1969年まで17年間の現役生活を送り、2007試合に出場。打率.267(6980打数1864安打)、66本塁打、434打点、350盗塁の成績を残している。

打撃面では、やはり350個の盗塁数が目を引くだろう。これは、赤星憲広選手に次ぐ阪神歴代2位の記録となっており、3位の三宅伸和選手の198個を大きく引き離している。また2017年の現役選手では、鳥谷敬選手の121盗塁が最多となっており、当面、抜かされることの無い記録と言えそうだ。

しかし、吉田選手はなんといっても守備面での貢献が大きかった。当時は、現在のゴールデングラブ賞にあたる、守備の名手に贈られる表彰が無かったため記録としては残っていない。しかし、守備偏重ポジションとなる遊撃手ではベストナインがその役割を担っていたのだ。

吉田選手は、17年間の現役生活において1度しか打率3割を超えていないにも関わらず、9度のベストナイン受賞歴を誇っていることからも、守備での貢献度が高かったことがわかる。その華麗な守備は「牛若丸」とも呼ばれ、日米野球で対戦したメジャーリーガー達からも評価されていた。

吉田選手は、1969年に現役を引退。6年の時を経て、1975年に再び監督として阪神のユニフォームを着ることになる。

江夏豊選手をトレードで放出

1975年に監督へと就任した吉田氏。1974年に引退した長嶋茂雄選手が読売ジャイアンツの監督に就任しており、伝統の二球団がともに新監督となってのシーズンだった。1974年にV10を阻まれた巨人は、長嶋監督の初年度で意気込んでいたが、V9の主力メンバーは衰えが見られ球団史上初の最下位に沈んでいる。

優勝争いは「赤ヘル旋風」を巻き起こした広島東洋カープ、前年員V9を阻んだ中日ドラゴンズ、そして吉田監督率いる阪神で行われた。シーズン開幕当初に首位をキープしたのは阪神だ。田淵幸一選手が本塁打を量産し首位を奪取。8月まで優勝争いを繰り広げたが最後は力尽きてしまう。優勝は広島に譲ったものの、田淵選手は王貞治選手の本塁打王を13年連続でストップさせ初のタイトル獲得となった。

チームは、前年の4位(57勝64敗9分)から1つ順位を上げ3位(68勝55敗7分)。上々といえるこのオフに吉田監督は大型トレードを敢行する。

エースとして長年に渡り、チームを支えてきた江夏豊選手をトレードで放出したのだ。このトレードで阪神にやってきたのは、江本孟紀選手ら4人だった。このトレードの際に江夏選手へ通告したのはフロントだった。吉田監督はこのことを長年後悔しており、監督として自分で伝えるべきだったと語っている。

優勝には届かなかった1976年

翌1976年は、巨人と優勝争いを繰り広げるも最後に競り負け2位に終わってしまう。この年の阪神は攻撃力を重視しておりラインバック選手、ブリーデン選手、掛布雅之選手、田淵選手の4名が20本塁打以上を記録。当時のプロ野球記録となる193本塁打をマークしている。
阪神は、この強力打線を武器に4月に11連勝をマーク。前半戦を首位で折り返したものの、オールスター明け直後から9連敗を喫し、巨人に交わされ、優勝を逃してしまった。
江夏選手とのトレードでやってきた江本選手は、15勝を挙げる活躍。チームとして72勝45敗13分、勝率.615と前年の勝率.553から.060上昇させたが、巨人に及ばなかったのだ。第1期吉田政権においてのピークはこの1976年だった。
翌1977年は、吉田政権後初の勝率.500未満となる勝率.466(55勝63敗12分)でシーズンを終え監督を退任することになる。

猛虎復活の1985年

1977年に監督を退任した吉田氏は、1985年に再び監督として縦縞のユニフォームに袖を通すことになる。この年の阪神は、第1次吉田政権時をしのぐ猛虎打線で21年ぶりの優勝を果たすことになる。

その中心となったのは、三冠王に輝いたバース選手だ。1983年からチームに所属し3年目となっていたバース選手は、打率.350、54本塁打、134打点で三冠王を獲得した。またクリーンアップを組んだミスタータイガースこと掛布雅之選手、岡田彰布選手、真弓明信選手が、30本塁打以上を放ちまさに隙の無い打線で巨人、広島らを圧倒。74勝49敗7分、勝率.602で2位広島に7ゲーム差をつける圧勝で優勝を決め、吉田監督は選手達の手で宙を舞った。

その阪神猛虎打線の伝説となっているのがバックスクリーン3連発だ。4月17日に甲子園球場で行われた巨人戦でバース選手、掛布選手、岡田選手が3者連続でバックスクリーンへと本塁打を放ったのだ。このシーンは未だに語り継がれており、阪神を振り返る番組で繰り返し放送されるている。

日本シリーズでも常勝西武ライオンズを4勝2敗で下し、チーム史上初の日本一に輝いた。これ以降2016年終了時点で阪神は日本一になっておらず、唯一の日本一経験監督でもある。

日本一連覇を狙った1986年にバース選手は2年連続で三冠王に輝く活躍を見せたが、チームは振るわずに3位。1987年は屈辱の最下位。この年で吉田監督は退任することになり、これが暗黒時代への始まりでもあった。

阪神史上唯一となった3回目の監督

1987年シーズンの最下位を持って退任した吉田監督だが、1997年に三度目の監督就任となった。前年の6位から立て直すために、日本一経験者の吉田監督に声が掛けられたのだ。
吉田監督は10年ぶりに現場復帰を果たし、チーム立て直しを図る。しかし順位を1つ上げたものの、優勝争いをすることはできずに5位に終わった。1998年も同様に下位に低迷し、自身が監督として初となる最下位。このシーズン限りでユニフォームを脱ぐことになった。以降は日本でユニフォームを着ることは無く、フランスに渡りヨーロッパ野球の発展に力を貸した。
吉田監督は、フランス代表の監督に就任するなどフランス野球界へ大きな貢献をし、フランス野球ソフトボール連盟に、日本人として初めて名誉会員として名を連ねている。
吉田監督は1933年生まれということもあり、80歳を超えており現場復帰は難しい。しかし、これからも阪神、野球界を見守っていてほしいものである。

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