語られることの少ない現役時代
名将として知られ、近鉄バファローズ、オリックス・ブルーウェーブ(現バファローズ)で指揮を執り、1996年には日本一にも輝いている仰木彬監督。2004年には野球殿堂入りも果たしており、プロ野球界に残した功績は大きい。その仰木監督の選手としての現役時代が語れることは意外に少ない。
仰木選手は、ドラフト制度が制定される以前の1953年に東筑高校で甲子園に投手として出場。翌1954年に西鉄ライオンズへ入団した。プロ入り直後の春季キャンプで、高校時代の投手から二塁手へとコンバートされる。
初年度から101試合に出場すると、2年目からはレギュラーに定着。豊田泰光選手と二遊間を守り、西鉄の黄金時代を支えた。1960年には114試合に出場し、打率.267、4本塁打、30打点の成績を残し、初のベストナインを獲得。豊田選手との二遊間コンビで最初で最後の同時受賞となった。
1961年には、現役時代唯一のオールスターゲームに出場。以降1967年まで14年間にわたり現役を続け、1328試合に出場し打率.229、70本塁打、326打点の成績を残している。打撃面での評価は高くなく守備、犠打など小技を生かした好選手としての印象が強かった。
1967年に現役を引退後は西鉄でコーチをし、1970年に近鉄バファローズの守備走塁コーチに就任。指導者として第二の人生を歩むことになる。
コーチから監督就任
仰木氏は、現役を引退した翌年の1968年に西鉄のコーチに就任。中西太選手兼任監督の元で2年間コーチを務めたが、1969年に中西監督が退任すると、仰木コーチも西鉄を退団。翌1970年から、同じパ・リーグの近鉄の守備走塁コーチに就任する。当時、監督は三原修氏が務めていた。
仰木氏は1970年以降、近鉄一筋でコーチを務め、三原監督以後は岩本堯監督、西本幸雄監督、関口清治監督、岡本伊三美監督と複数の監督に仕えていた。1987年シーズン最下位だったチームの立て直しを図るべく、1988年に監督へ就任。これは、仰木コーチが近鉄に籍を移してから18年目のことだった。
仰木監督自身の古巣でもあり、当時は森祇晶監督率いる西武ライオンズ(旧西鉄)が、広岡達朗監督時代から続く連覇を3に伸ばし、黄金時代を築き上げていた。1988年は、その西武の4連覇を阻止するべくチームは始動することになった。
ブライアント選手の獲得が起爆剤に
仰木氏が監督に就任した1988年は、プロ野球界にとっても大きな動きがあった年だった。日本初のドーム球場である「ビッグエッグ」こと東京ドームがオープン。以後、日本で多く開場することになるドーム球場の先駆けとなった年でもあった。
仰木監督は、近鉄監督就任1年目の開幕投手に阿波野秀幸投手を指名。前年に15勝12敗、201奪三振、防御率2.88の成績を残し、新人王を獲得しており実績は申し分ない。阿波野投手は期待に応え、阪急ブレーブスを7安打に抑えて完封勝利し、仰木監督の監督初白星に花を添えた。
勢いに乗った近鉄は、開幕から4連勝のスタートダッシュに成功し、その後も西武に次いで2位をキープしながら進んでいく。その近鉄に衝撃が走ったのは6月上旬だ。主軸として活躍していたデービス選手が、麻薬不法所持で逮捕され解雇となったのだ。
野手の緊急補強を行うために目をつけたのが、中日の二軍にいたブライアント選手だった。当時の外国人枠は2人となっており、近鉄は中日で出番がなかったブライアント選手の獲得に成功。西武を追い上げるための起爆剤としての期待がかけられた。
仰木監督もブライアント選手を信頼し、登録して即スタメン起用。6番でスタートした打順も1週間で主軸となり、オグリビー選手と共にチームの打撃を支えていく。8月には13本塁打を放ち、月間MVPを獲得。ブライアント選手の活躍もあり、近鉄は首位・西武を猛追。10月19日に組まれているダブルヘッダーで、2連勝すれば優勝という状況になった。
1988.10.19
仰木監督は就任1年目にして3連覇中の西武を追い詰め、運命の日を迎えることになる。1988年10月19日の川崎球場。ロッテオリオンズ戦とのダブルヘッダーに連勝すればリーグ優勝までこぎ着けたのだ。西武はすでに全日程を終えており、待つのみとなっていた。
近鉄は第1試合で終盤までロッテにリードを許し、7回終了時点で1-3と2点ビハインド。仰木監督は8回に代打攻勢をかけ、2点を奪って3-3の同点。引き分けならV逸となる最終回、土壇場の攻撃で代打・梨田昌孝選手が決勝タイムリーを放ちついに勝ち越す。その裏を無失点で切り抜け、4-3で第1戦をものにした。仰木監督執念の代打攻勢が実を結んだ勝利だった。
運命の第2戦も先制したのはロッテだった。2回裏にマドロック選手が本塁打で1点をリード。近鉄は6回にオグリビー選手の適時打で追いつき、終盤戦を迎えた。7回に2点を奪い、この試合初めてのリードを奪った近鉄・仰木監督は、マウンドにリリーフエースの吉井理人投手を投入したが、吉井投手は2点を失い試合は再び同点となる。
8回に再び1点を勝ち越した近鉄は、その裏のマウンドに第1戦でも登板したエースの阿波野投手をマウンドへ送る。この采配に仰木監督の執念を感じさせたが、阿波野投手もリードを守れず再び同点。その後、延長10回までもつれ込んだものの両チーム得点を奪うことができず、4-4のまま時間切れ引き分けに終わり、西武の優勝となった。
10回裏、優勝の可能性がなくなった近鉄ナインは放心状態のまま、守備に就いた。試合後、仰木監督は「1年目で最後までいい戦いができた」と語っており、翌年以降への手応えを感じさせた。このダブルヘッダーは「伝説の10・19」として現在も語り継がれており、各所でイベントなどが行われている。
1989.10.12
1989年シーズンも前年同様、激戦のペナントレースとなった。この年は、近鉄、オリックス、西武の三つどもえとなり、シーズン終盤は激しいデッドヒートを繰り広げていた。
その混戦を抜け出す試合となったのが、10月12日に行われた近鉄と西武のダブルヘッダーだ。第1試合は西武がリードで試合は進んだが、ブライアント選手の満塁本塁打を含む3打席連続本塁打で近鉄が勝利。迎えた2試合目、第1打席は敬遠されたものの第2打席でブライアント選手は超特大の本塁打を放ち、4打数連続本塁打で西武の息の根を止めた。
近鉄は、このブライアント選手の活躍で西武に連勝し、優勝へのマジック2が点灯。2日後の10月14日には、本拠地である藤井寺球場でダイエーに勝利し優勝を飾った。
このとき仰木監督は「私の手で一人一人を胴上げしたいくらいだ」と発言。選手達への思いを常に持っていた監督だった。これが、仰木監督にとって近鉄時代における最後の優勝となった。