10.19から1年後の歓喜・仰木彬監督【球史に名を残した偉人達】|【SPAIA】スパイア

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10.19から1年後の歓喜・仰木彬監督【球史に名を残した偉人達】


語られることの少ない現役時代

名将として知られ、近鉄バファローズ、オリックス・ブルーウェーブ(現バファローズ)で指揮を執り、1996年には日本一にも輝いている仰木彬監督。2004年には野球殿堂入りも果たしており、プロ野球界に残した功績は大きい。その仰木監督にも選手としての現役時代があった。
仰木選手は、ドラフト制度が制定される以前の1953年に東筑高校で甲子園に投手として出場。その実績を認められ、翌1954年に西鉄ライオンズへ入団した。プロ入り直後の春季キャンプで、高校時代の投手から二塁手へとコンバートされる。
初年度から101試合に出場すると、2年目からはレギュラーに定着。豊田泰光選手と二遊間を守り、西鉄の黄金時代を支えている。1960年には114試合に出場し、打率.267、4本塁打、30打点の成績を残し初のベストナインを獲得。豊田選手と二遊間コンビで最初で最後の同時受賞となった。
1961年には、現役時代唯一のオールスターゲームへ出場。以降1967年まで14年間にわたり現役を続け、1328試合に出場し打率.229、70本塁打、326打点の成績を残している。打撃面での評価は高くなく守備、犠打など小技を生かした好選手としての印象が強かった。
1967年に現役を引退後は西鉄でコーチを行い、1970年に近鉄バファローズの守備走塁コーチに就任。指導者として第二の人生を歩むことになる。

コーチから監督就任

仰木氏は、現役を引退した翌年の1968年に西鉄のコーチに就任。中西太選手兼任監督の元で2年間コーチを行うが、1969年に中西監督が退任すると、仰木コーチも西鉄を退団。翌1970年から、同じパリーグのライバルである、近鉄の守備走塁コーチへ就任する。当時、監督は三原修氏が務めていた。
仰木氏は1970年以降、近鉄一筋でコーチを務め、三原監督以後は岩本堯監督、西本幸雄監督、関口清治監督、岡本伊三美監督と複数の監督に仕えていた。1987年シーズン最下位だったチームの立て直しを図るべく、1988年に監督へ就任。これは、仰木コーチが近鉄に籍を移してから18年目のことだった。
仰木監督自身の古巣でもあり、当時は森祇晶監督率いる西武ライオンズ(旧 西鉄)が、広岡達朗監督時代から続く連覇を3に伸ばし、黄金時代を築き上げていた。1988年は、その西武の4連覇を阻止するべくチームは始動することになったのだ。

ブライアント選手の獲得が起爆剤に

仰木氏が監督に就任した1988年は、プロ野球界にとっても大きな動きがあった年であった。日本初のドーム球場である「ビッグエッグ」こと東京ドームがオープン。以後、日本で多く開場することになるドーム球場の先駆けとなった年でもある。
仰木監督は、近鉄監督就任一年目の初戦に「トレンディエース」こと阿波野秀幸選手を指名。前年に15勝12敗、201奪三振、防御率2.88の成績を残し、新人王を獲得しており実績は申し分ない。阿波野選手は期待に応え、阪急ブレーブスを7安打に抑え完封勝利し、仰木監督の監督初白星に花を添えた。
その後も勢いに乗った近鉄は、開幕から4連勝のスタートダッシュに成功し、その後も西武に次いで2位をキープしながら進んでいく。その近鉄に衝撃が走ったのは6月上旬だ。主軸として活躍していたデービス選手が、麻薬不法所持で逮捕され解雇となったのだ。
野手の緊急補強を行うために目をつけたのが、中日の二軍にいたブライアント選手だった。当時の外国人枠は2名となっており、近鉄は中日と交渉し、中日で出番がなかったブライアント選手の獲得に成功。西武を追い上げるための起爆剤としての期待がかけられた。
仰木監督もブライアント選手を信頼し、登録から即日でスタメン起用。6番でスタートした打順も1週間で主軸となり、オグリビー選手と共にチームの打撃を支えていく。8月には13本塁打を放ち月間MVPを獲得。このような活躍もあり、近鉄は首位西武を猛追。10月19日に組まれているダブルヘッダーで、2連勝すれば優勝という状態となった。

1988.10.19

仰木監督は就任一年目にして3連覇中の西武を追い詰め、運命の日を迎えることになる。1988年10月19日の川崎球場で行われる、ロッテオリオンズ戦とのダブルヘッダーに連勝すればリーグ優勝までこぎ着けたのだ。西武はすでに全日程を終えており待つのみとなっていた。
近鉄は第1試合で終盤までロッテにリードを許し、7回終了時点で1-3と2点ビハインド。仰木監督は、8回に代打攻勢を掛け2点を奪い3-3の同点。最終回の攻撃で代打梨田昌孝選手(現楽天監督)が、決勝適時打を放ちついに勝ち越し。その裏を無失点で切り抜け4-3で第1戦をものにした。仰木監督執念の代打攻勢が実を結んだのだ。
運命の第2戦も先制したのはロッテだった。2回裏にマドロック選手が本塁打で1点をリード。近鉄は6回にオグリビー選手の適時打で追いつき、終盤戦を迎えることになる。7回に2点を奪い、この試合初めてのリードとなった近鉄仰木監督は、マウンドにリリーフエース吉井理人選手を投入。しかし吉井選手は、2点を失い試合は再び同点となる。8回に再び1点を勝ち越した近鉄は、その裏のマウンドにエースの阿波野選手を投入。阿波野選手は第1戦でも登板しているにも関わらずだ。この采配に仰木監督の執念を感じさせてくれる。しかし、阿波野選手もリードを守れず再び同点。その後は両チーム得点を奪うことができず、4-4のまま引き分けに終わり西武が優勝となった。
このダブルヘッダーは現在でも語り継がれており、各所でイベントなどが行われている。
この敗戦後に仰木監督は「1年目まで最後までいい戦いができた」と語っており、翌年以降への手応えを感じさせてくれた。

1989.10.12

1989年シーズンも前年同様、激戦のペナントレースとなった。この年は、近鉄、オリックス、西武の三つどもえとなり、シーズン終盤は激しいデッドヒートを繰り広げていた。
その混戦を抜け出す試合となったのが、10月12日に行われた近鉄と西武のダブルヘッダーだ。第1試合は西武がリードで試合は進んだが、ブライアント選手の満塁本塁打を含む3打席連続本塁打で近鉄が勝利。迎えた2試合目、第1打席は敬遠されたものの第2打席でブライアント選手は本塁打を放ち、4打数連続本塁打で西武の息の根を止める。
近鉄は、このブライアント選手の活躍で西武に連勝し、優勝へのマジック2が灯った。その2日後の10月14日には、本拠地である藤井寺球場でダイエーに勝利し優勝を飾ったのだ。
このとき仰木監督は「私の手で一人一人を胴上げしたいくらいだ」と発言。選手達への思いを常に持っていた監督だった。これが、仰木監督にとって近鉄時代における最後の優勝となる。

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