阪神一筋の現役時代
立命館大学を中退し1953年に大阪タイガース(現:阪神タイガース)へ入団。初年度から遊撃手のレギュラーを獲得し名を馳せた吉田義男選手。
本塁打は少なかったもものの俊足・巧打・守備の名手として17年間の現役生活で遊撃手、二塁手としてチームを支え、打撃タイトルとしては1954年、1956年に盗塁王を獲得。オールスターゲームにも13度の出場を果たしている。
現役生活で打率3割を超えたのは1964年の1度(打率.318/434打数138安打)だけであったが、生涯を通して安定した打撃を誇っており通算打率.267(6980打数1864安打)を残している。名球会の入会条件でもある2000本安打には惜しくも届かなかったものの1969年に現役を引退してから18年後となる1987年に背番号「23」は阪神の永久欠番となった。
1992年にはその功績がたたえられ競技者表彰で野球殿堂入りも果たすなど野球界に大きな影響を与えた一人でもある。
監督として1985年の日本一を達成
吉田氏は1969年に現役を引退し野球のグラウンドからは離れテレビの野球解説者などを行っていた。その吉田氏が現場に戻ってきたのは1975年のことだ。
吉田選手も現役時代であった1964年に藤本定義監督がリーグ優勝に導いて以降、阪神は優勝から遠ざかっており前年(1974年)は金田正泰監督が率い3年ぶりのBクラスとなる4位(57勝64敗9分)に沈んでいた。その金田監督の後を受けて監督に就任したのが吉田氏だったのだ。選手兼任コーチとしての経験はあったものの専任の指導者、しかも監督としては初めてのシーズンに望んだ吉田監督は、前年の4位から立て直し68勝55敗7分貯金を13作る手腕を発揮している。
1976年は読売ジャイアンツと2ゲーム差の2位(72勝45敗13分)となりあと一歩で優勝までチームを成長させていった。一転1977年は4位(55勝63敗12分)となり吉田監督は退任。志し半ばでチームを去ることになった。
その8年後となる1985年に再び、阪神の監督に就任した吉田監督はバース選手、掛布雅之選手、岡田彰布選手らのクリーンアップ、真弓明信選手と言ったリードオフマンを駆使。球団史上初となる日本一にチームを導いている。
1985年の優勝時は優勝争いを経験したことのない選手へのプレッシャーを考慮し「優勝」というフレーズを最終盤まで使わなかった。これは、自身が現役時代に感じ取った「勝つまで勝負はわからない」と言うところから来ているのだ。
1987年まで監督を務めるが成績は下降線を辿り1986年:3位、1987年:6位となり監督を退いた。以降、フランス野球代表監督を務めるなど、グローバルな視野を取り入れるなど野球界に対し精力的な活動を行っている。1997年には再び阪神の監督に就任し2年間の監督生活を送るが5位、6位と結果を残すことはできず野村克也監督へとバトンタッチ。吉田監督はこれ以降、ユニフォームを着ることはなく現場からは一線を引いている。
日米野球でメジャーからも賞賛を浴びた華麗な守備
「牛若丸」の異名を取り守備の名手であった吉田選手。現役当時にゴールデングラブ賞(ダイヤモンドグラブ賞)に相当するタイトルはなく一目で分かるものがない。しかし、打率3割を1度しかマークしていないにもかかわらずベストナインを9度獲得していることから守備での貢献度が高かったことがよく分かる。
吉田選手が守っていた遊撃手だけでなく捕手に関しても、打撃が突出している選手がいない場合は守備の印象が強かった「名手」にベストナインが送られていたのだ。
また、入団3年目に当たる1955年のオフに行われた日米野球ではニューヨーク・ヤンキースと対戦。日本代表はヤンキースに対し1勝もできず15敗1分と完膚なきままにたたきのめされた。
しかし、ヤンキースの選手による投票で吉田選手が「日本の傑出した選手」に選ばれたのだ。その評価は打撃面ではなくやはり守備だった。ヤンキースを率いていたケーシー・ステンゲル監督は「吉田の守備はメジャーリーグでも通用する」とコメントしメジャー級のお墨付きを貰っていた。
「縦縞を横縞に変えてでも」
1996年11月、西武ライオンズの主砲であり甲子園からスター街道を歩んできた清原和博選手がFA宣言を行った。清原選手は西武から巨人移籍を考えての権利行使というのが大方の予想であったが、そこに阪神タイガースが名乗りを上げ争奪戦に加わったのだ。
巨人との交渉後に阪神は吉田監督、三好一彦球団社長が清原選手と面談。その席で吉田監督は「阪神の縦縞を横縞に変えてでも君が欲しい」と清原選手を口説きに掛かった。この言葉に清原選手も「阪神の熱意で汗が出てきた」とインタビューで語っている。
阪神の伝統である縦縞のユニフォームを監督の一存で変更できるわけではない。しかし、交渉の席でその言葉を口にするほど吉田監督は清原選手を買っていた。
結果として清原選手は巨人を選び阪神に入団することはなかった。当然、吉田監督の下でプレーすることはなかったがこの言葉は後世に語り継がれている明言である。
フランス代表監督就任からサッカー界の発展にも寄与
吉田氏は1987年に阪神の監督を退任後、1989年にフランスへと渡り1990年から1995年までフランス野球代表の監督を務めている。在任期間中に予選が行われた1992年のアトランタオリンピック、1996年のアトランタオリンピックに出場を果たすことはできなかった。
フランスは2017年現在で世界ランキング26位となっている。これは、オランダ(9位)、イタリア(12位)、イスラエル(19位)、ドイツ(20位)、スペイン(23位)、ロシア(25位)に次ぐヨーロッパで7位相当だ。その基盤を作ったのが吉田氏だったのだ。
また、フランススポーツ界との交流も深く日本サッカー協会の川淵三郎氏にフィリップ・トルシエ元日本代表を紹介したのも吉田氏である。2002年に行われたサッカーの日韓ワールドカップでベスト16まで進出した陰には吉田氏のトルシエ氏仲介があったのだ。
グローバルな視点を持っていた吉田監督は野球界のみならず、サッカー界の発展にも貢献していた。1933年生まれと言うこともありユニフォームを着ることはもうないだろう。今後も、暖かく野球界、プロスポーツ界を見守っていてほしいものである。