巨人の永久欠番は6つ
巨人は背番号「1」「3」「4」「14」「16」「34」の6つが永久欠番となっているが、名投手が背負ってきた「17」は現在も受け継がれている。そうそうたる面々が継承してきた背番号17の系譜を紹介しよう。
巨人は背番号「1」「3」「4」「14」「16」「34」の6つが永久欠番となっているが、名投手が背負ってきた「17」は現在も受け継がれている。そうそうたる面々が継承してきた背番号17の系譜を紹介しよう。
ロシア出身で、身長191センチもあったスタルヒンは1937年秋から5季連続最多勝。中でも1939年には、現在も稲尾和久(1961年)と並ぶNPB最多記録の42勝をマークした。
幼い頃に一家でロシアから日本に亡命し、1939年にノモンハン事件が起きるとスパイの容疑を受けるなど相当な苦労があったことが伝えられている。敵性スポーツと見なされた野球は英語の使用が禁止され、一時期は「須田博」としてプレー。戦後は大映など複数球団をわたり歩き、1955年に引退するまで通算303勝を挙げた。
1957年、交通事故のため40歳の若さで死去。波乱万丈の野球人生だった。
藤本英雄は下関商から明治大を経て1942年に巨人入団。翌1943年には34勝11敗、防御率0.73、勝率.756、253奪三振で投手4冠(19完封も含めると5冠)に輝いた。
この頃は背番号35だったが、戦後の1948年から「17」を背負い、1950年には日本プロ野球史上初の完全試合を達成。1955年に引退するまで通算200勝(87敗)を挙げた。
1943年の防御率0.73、19完封、通算防御率1.90、通算勝率.697は、現在も通算2000投球回以上のNPB記録。打撃も良く、1950年にマークした7本塁打は大谷翔平に更新されるまで投手のシーズン最多本塁打だった。生涯打率.245、15本塁打、151打点の成績を残している。
倉田誠は1965年に入団し、V9最後のシーズンとなった1973年に18勝9敗、防御率2.74、勝率.667で最高勝率のタイトルを獲得。南海との日本シリーズでは第2戦、第5戦で先発し、日本シリーズ9連覇に大きく貢献した。
ヤクルト移籍後の1978年には中継ぎ、抑えとして活躍し、チームの初優勝に貢献。通算55勝37敗13セーブの成績を残した。
倉田誠との交換トレードでヤクルトから移籍したのが浅野啓司。福山電波工業高では村田兆治より1学年上のエースで、1966年の第1次ドラフト9位でサンケイ(現ヤクルト)に入団した。
1973年に14勝を挙げるなどヤクルト時代に「巨人キラー」と呼ばれていた右腕は、巨人に移籍した1977年から引退する1984年まで背番号17をつけ、通算86勝(116敗)を挙げた。
浅野の引退後、2年間のカムストックを挟んで背番号17を継承したのが槙原寛己だった。大府高から1981年ドラフト1位で入団。1983年に12勝、1986年に9勝などの実績を認められ、背番号54から変更された。
槙原のハイライトと言えば、1994年5月18日の広島戦(福岡ドーム)で達成した平成唯一の完全試合だろう。2022年に佐々木朗希(ロッテ)が達成するまで、長らく「最後の達成者」だった。
長いプロ野球の歴史上で、完全試合を達成したわずか16人のうち2人は巨人の背番号17(藤本英雄と槙原寛己)というのも不思議な巡り合わせだ。槙原は通算159勝56セーブをマークして2001年に引退した。
槙原の引退後に「17」を受け継いだのが高橋尚成。修徳高から駒澤大、東芝を経て1999年ドラフト1位で入団後2年間は「36」だったが、変更して1年目の2002年に初の2桁勝利となる10勝を挙げた。
2007年から「21」に変更したため「17」は5年間だけだったが、FAでメジャー挑戦する2009年までに79勝をマーク。日米通算では93勝85敗25セーブ18ホールドの成績を残した。
高橋の後、姜建銘、東野峻、香月良太を経て2014年から背負ったのが大竹寛。前年オフにFA宣言して広島から移籍した右腕だ。
1年目には先発で9勝をマーク。2021年に引退するまで「17」を背負い続け、通算102勝を挙げた。
2022年は前年にメジャーから復帰した山口俊が「99」から変更して1年間背負ったものの、同年限りで引退。2024年から背負うのが、花巻東高から中央大を経てドラフト1位で入団した右腕・西舘勇陽だ。
阿部慎之助監督の大学の後輩でもある期待のルーキー。栄光のナンバーに恥じない活躍が期待される。
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