巨人の永久欠番は6つ
巨人は背番号「1」「3」「4」「14」「16」「34」の6つが永久欠番となっているが、エースナンバー「18」は現在も受け継がれている。球史に残る名投手が背負ってきた背番号18の系譜を紹介しよう。
巨人は背番号「1」「3」「4」「14」「16」「34」の6つが永久欠番となっているが、エースナンバー「18」は現在も受け継がれている。球史に残る名投手が背負ってきた背番号18の系譜を紹介しよう。
初代18番のスタルヒンから前川八郎を経て1939年に受け継いだのが中尾碩志(輝三)だ。京都商から1939年に入団し、1年目にノーヒットノーランを達成するなど12勝を挙げると、1940年から2年連続26勝をマーク。1942年も13勝を挙げた。
戦争でチームを離れたものの、1946年に復帰すると1948年には27勝で最多勝のタイトル獲得。1957年に引退するまで209勝を挙げ、後に野球殿堂入りも果たした。
通算3057投球回でNPB歴代3位の与四球1436を記録するなど制球力に難があり、2度達成したノーヒットノーランも10四球と8四死球。それでも抑え込む剛腕だった。引退後はコーチや二軍監督、スカウトを務めた。
中尾から背番号18を継承したのが、1957年に入団した藤田元司。慶応義塾大から日本石油を経てプロ入りすると、背番号21だった1年目にいきなり17勝を挙げて新人王に輝く。2年目の1958年からエースナンバー18に変更した。
その2年目は29勝、3年目には27勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得し、2年連続でMVPに輝いた。あまり知られていないが、長嶋茂雄がサヨナラ本塁打を放った1959年6月25日の天覧試合で先発し、完投勝利を収めている。
現役生活は8年と短かったが、1964年に引退するまで通算119勝をマーク。引退後は巨人の監督として2度の日本一を果たし、名監督としても名を馳せた。
堀内恒夫は1965年ドラフト1位で甲府商から入団。1年目から開幕13連勝するなど16勝2敗の好成績をマークし、新人王はもちろん沢村賞、最優秀防御率、最高勝率のタイトルを獲得した。その活躍もあり、21だった背番号は2年目からエースナンバー18に変更となった。
1972年には26勝で最多勝に輝くなど13年連続2桁勝利をマーク。1983年にユニフォームを脱ぐまで通算203勝を挙げた。投球だけでなく打撃面でも通算21本塁打、82打点を挙げている。
引退後は2004年に監督就任。1年目が3位、2年目が5位と結果を残せず、2シーズンで退任した。
1985年のドラフト会議で巨人が1位指名したのは、巨人入りを熱望していたPL学園・清原和博ではなく、早稲田大進学を表明していたチームメイトの桑田真澄だった。
エースナンバーを継承した桑田は高卒1年目こそ2勝どまりだったが、2年目に15勝をマーク。防御率2.17でタイトルを獲得した。
その後も6年連続2ケタ勝利。ケガで苦しんだシーズンもあったが、2002年には12勝を挙げて防御率2.22で2度目のタイトルに輝いた。
2007年には海を渡り、MLBパイレーツで19試合に登板。39歳でメジャーデビューを飾った。通算173勝。ストレートと大きなカーブ、正確なコントロールで勝負する正統派の右腕だった。
桑田の引退後は空き番となっていた背番号18を受け継いだのが、ソフトバンクからFAで入団した杉内俊哉。4年20億円と言われた破格の条件とともにエースナンバー18も提示され、移籍を決断した。
1年目の2012年に12勝を挙げると、3年連続で2桁勝利をマーク。4年間で39勝を挙げたが、度重なるケガの影響で2015年7月以降、一度も登板することのないまま2018年に引退した。
巨人では39勝、通算では142勝をマーク。「松坂世代」を代表する投手の一人として一時代を築いた左腕だった。
現在、18番を背負うのが菅野智之だ。1年目の2013年から2018年までは背番号19だったが、杉内の引退に伴い、エースナンバーを継承。最多勝に3度輝くなど2022年終了時点で通算117勝を挙げている。
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